「まあ、そんな絶望的なことは言わないで」 沈鬱な空気が漂い始めたコンピュータールームに、それまで彼女の聖闘士たちのやりとりを黙って聞いていた沙織の声が響く。 どうやら彼女が青銅聖闘士たちに見せたドキュメンタリー映像は、問題提起用の、いわゆる前座に過ぎなかったらしい。 「そこで登場するのがこれよ」 彼女は得意げな様子で氷河たちに宣言すると、手馴れた様子でモニタースクリーンを制御しているコンピューターのタッチパネルを操作してみせた。 壁のスクリーンに、突然、富士山と鷹とナスビ、及びグラード・ピクチャーズ・エンターティメントのロゴが写しだされる。 「何ですか、これ。映画……?」 悲惨な映像のすぐあとに、おめでたさを極めたものを見せられて、瞬は大いに面食らった。 沙織が首を横に振る。 「CGにグラード・ピクチャーズ・エンターテイメントの協力を得ただけよ。これは、題して、『目指せ、争いのない世界・マルチエージェント シミュレーションモデル』。開発期間1年、開発費用150億。グラード財団が、ヒトゲノム解析計画の完遂を2年早めたと言われる優秀なプログラマーを多数招聘して構成した研究グループに作らせた超画期的なシステムよ」 「マルチエッチ シミュレーションモデル? 何だ、そりゃ?」 どこで区切ればいいのかわからなかったらしい星矢が、勝手にその横文字を短くして沙織に問い返す。 沙織は星矢の発言の訂正もせずに、システムの説明に入った。 「システム内で、主体性をもち自律的に行動するもののことをエージェントと呼ぶの。マルチエージェントというのは、つまり、自らの価値基準に従って自分の行為を自由に選択できるような自立したエージェントが、多数共存する環境のことよ」 「???」 沙織の説明は、しかし、星矢が飛ばすクエスチョンマークの数を更に増やしただけだった。 が、沙織もそのあたりのことは心得ている。 彼女はすぐに、星矢にもわかるように具体例を用いて、説明をし直した。 「具体的に言うと、このシステムの中には、現在、氷河の人格・価値観を持ったエージェントと瞬の人格・価値観を持ったエージェントが存在するの」 「なぜ、俺たちなんです!」 「あら、だって他の人のデータを借用したら、個人情報保護や肖像権の問題が出てくるじゃないの」 「俺たちには肖像権もプライバシーもないというのか」 氷河のクレームに、沙織がにこやかに微笑み、答える。 「そのうち、星矢や紫龍のエージェントも追加するわ」 氷河は決して そういう不公平を憤ったわけではなかったのだが、沙織はそれで氷河のクレーム処理を一方的に完了させてしまった。 「これはね、あなたたちのデータをすべて入れてあるエージェントを特定の状況の中に投げ入れて、戦いを生む元になる憎しみや復讐心を断ち切る方法をシミュレートしてみようというものなの」 「どういうふうに――」 150億の投資をして作ったシステムを、沙織が青銅聖闘士のクレームごときで なかったことにしてくれるはずがない。 沙織の価値観と人格をよく知っている氷河は、彼女への抵抗を早々に断念し、疲れた口調で彼の女神に尋ねた。 知恵と戦いの女神が、軽く顎をしゃくる。 「見てみる? これは一人のエージェントが“敵”に瀕死の重傷を負わされたところから始まるの。死にかけたエージェントには、生き延びる方のエージェントに、憎しみの感情を残させないことを目的として行動するようにという指示が与えられているのよ」 そう言って、沙織はシステム稼働のスイッチを入れた。 グラード・ピクチャーズ・エンターテイメントの協力を得たCGは、さすがに見事なものだった。 スクリーンに、神聖な雰囲気とリアルな質感をたたえた聖域の様子が映し出される。 遠くには女神像、天気は快晴。 BGMはもちろん横山セージ。 今にもどこからか黄金聖闘士が姿を現しそうな臨場感である。 そこに突然。 なにやら ちまちまと細かい動きを示す物体が、スクリーンの右端から現れた。 「な……何なんですか、これ……」 「何なんですかって、これが氷河とあなたの人格データを抽入したエージェントに姿形を与えたものよ。こっちの水色のが“ちまい氷河”、略して“ちま氷河”、そっちのピンクのが“ちまい瞬”、略して“ちま瞬”」 『い』しか略していないではないかという意見はともかく、沙織が『氷河と瞬のエージェントに姿形を与えたもの』と言ったそれは、3頭身のコケシのような代物だった。 レゴブロックでできた人形のように、目は『●』、口は『−』という単純な造形は、リアルな背景に似合わないこと甚だしい。 「これは――あれだ。キャラメルについてくるおまけのようだな」 「馬鹿言うなよ。今時、食玩のフィギュアはもっと出来がいいぜ」 それが自分たちでないせいか、紫龍と星矢は、特にそのブロック人形に不快の念は抱かなかったらしい。 が、氷河はそうはいかなかった。 彼は、『システム稼働の前に、まずそのネーミングとデザインをどうにかしてくれ』と、再度沙織にクレームをつけようとしたのだが、そんな氷河を無情に無視して、『目指せ、争いのない世界・マルチエージェント シミュレーションモデル』システムは動き始めてしまったのである。 |