そういうわけで、氷河が買ってきたケーキは、めでたく星矢のものになったのである。
「それはおまえにやる」
と星矢に一瞥もくれずに言った氷河は、瞬の肩を抱いて、ラウンジから出ていってしまった。

なかなか口をきける状態にまで回復できなかった星矢は、氷河にケーキの礼を言うことはできず、星矢が何とか燃え尽き状態から回復できた時、彼が礼を言うべき相手は既にその場にいなかった。
『ありがとう』の代わりに星矢の口から出てきたのは、
「瞬って、最近、時々ああいう発作 起こすよな……。大丈夫なのかな」
という、瞬の様子を危惧する言葉だったのである。

「大丈夫だろう。氷河がついている」
紫龍からは、即座に軽い調子の返事が返ってきた。
星矢は、自分の心配の深刻さが仲間に通じていないものと思い、意識して表情を強張らせたのである。
「したくもない闘いばっかりさせられてさ、瞬の奴、精神的にまいってるんじゃないか?」
自分の心配の内容を具体的な言葉にした星矢に、紫龍はまたしても軽く笑って頭を左右に振った。

「俺が見たところ、あれは恋の病だな」
「へ?」
「瞬は、氷河のために、自分には生きて存在する価値があると思いたいんだろう。だが、その自信が持てなくてもがいているんだ」
星矢は、正直なところ、紫龍のその言葉に気が抜けてしまったのである。
自分の洞察力が紫龍に及ばないことに関しては 星矢も自覚していたが、瞬の錯乱の理由がそんなことだという紫龍の見解に、星矢はにわかに同意することができなかった。

星矢のイメージする恋の病というものは、例えば、何を見聞きしても相手のことを連想してしまうとか、集中力がなくなってミスばかり犯すとか、そんなふうに、もっと馬鹿馬鹿しく、もっとおめでたいものだった。
あるいは、動悸・息切れ・発熱・目眩い・食欲不振等、風邪の諸症状に似たもの――だったのである。
そして、今の瞬が呈している症状は、星矢のイメージする恋の病のどの症状とも合致していない。
だが、紫龍は、瞬の病名が恋の病だということに絶対の自信を抱いているようだった。

「それがわかっているから、あの短気な氷河が、投げ出さずに根気よく瞬を説得し続けているわけだ。氷河にあれだけの忍耐強さを養わせるとは、瞬はさすがに大物だな」
本当は瞬が大物なのではなく――それだけではなく――、氷河がこれまでに大切な人を失いすぎていることが、彼のこの忍耐強さの主原因なのだと紫龍は思っていた。
氷河は、つまらない短気やプライドのために大事な人を失う愚を犯すつもりは全くないのだ。
氷河のその慎重さが、逆に焦慮と不安を瞬にもたらしているのは実に皮肉な事象ではあったが。

「なんで瞬が? 氷河の方が瞬にふさわしいかどうか悩むのならわかるけど」
星矢の価値基準は実に明確だった。
優しく善良な人間が、人間として上等。
星矢にとっては、氷河より瞬の方が上等な人間だったのである。
そして紫龍も、ある面では、星矢のその考えに賛成だった。

「まったくだ。が、瞬はこの手のことに関しては、まあ、いわゆる初心者で――。初恋というものはそういうものだろう」
「そういうもの――って、そうかぁ? 初恋ってのはさ、もっとこう ほのぼのしてるもんじゃないのか? それこそ美味いケーキ見ながら、いただきますって言う時みたいにわくわくするもんじゃねーの? 瞬のあれは、初恋っていうより、最後の恋って感じだぞ」

星矢の意見を聞いた紫龍が、ふっと顔をあげる。
それから彼は少しばかり感心したような表情になって、まじまじと星矢を見詰めた。
「星矢には専門外かと思っていたが、案外わかっているじゃないか。その通りだ」
「…………」

実は何もわかって・・・・いなかった星矢は、紫龍にそう言われて初めて、そう・・だったのだと理解し、納得した。
これが初めての恋で最後の恋と信じていたら、瞬に限らず、人は誰でも今の瞬のようになるのかもしれない。
決して失うことのできないものを初めて手にした時、それは、人に、大きすぎる不安と喜びを同時にもたらし、その心を不安定にするものなのだろう。
瞬はおそらく、それを失わないために、懸命に足掻あがいているのだ。

テーブルの上には、氷河の買ってきたケーキが取り残されている。
瞬の好きなケーキを、星矢はフォークを使わずに手で掴み、一口かじった。
瞬が好きなものだけあって、さすがに半端でない甘さが星矢の口中に広がる。
「恋ってのは、こんなふうに甘いものかと思ってたんだけどな。瞬のすることだし」
「尋常でなく甘いじゃないか。正直、氷河があれほど甘い男になりさがるというのは、俺には想定外のことだったぞ」
「そりゃ何たって瞬は甘いものが好きだから、瞬に好かれようと思ったら、ああなるしかないだろ」

これはいいことなのだろうと、星矢は思った。
瞬が、地上の平和や人類の幸福の他に、自分自身のささやかな幸せを守ろうとして闘うこと、闘おうとすることは。
氷河自身はそれを失うつもりは毛頭ないのだから、瞬の不安や懸念は杞憂にすぎないと冷静に判断できるのは、星矢が二人の恋の第三者であるからでしかないのだ。

少々傍迷惑ではあったが、理由がわかってみれば、瞬の情緒不安定は可愛らしいこと この上ない。
一輝よりも兄弟のように――それこそ兄弟の子犬同士のように いつも瞬と遊んでいた星矢としては、瞬に置いていかれたような気がして少々寂しかったのだが、それで駄々をこねるほどには、星矢も子供ではなくなっていた。

瞬のケーキをもう一口かじる。
やはり甘い。
甘党の瞬のために――せめて闘いのない時だけでも、瞬を取り囲む時間や人が こんなふうに甘いものであればいいと、星矢は思った。






Fin.






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