「聖域のこれからを話し合ったのでないにしても、カノンは実質 生きているただ一人の黄金聖闘士なんですから、結局は彼が次期教皇ということになるのではないんですか、沙織さん」 カノンを乗せた車が走り去ると、アテナと彼女の聖闘士たちは邸内に戻った。 既に“敵”は去ったというのに まだ怒りがおさまらないでいるらしい氷河の存在を意識して無視し、紫龍が沙織に尋ねる。 自分の憤りに専心しているように見えた氷河が仲間の発言に耳ざとく反応し、彼は室内に大きな怒声を響かせた。 「教皇 !? あの助平親父がかーっっ !! 」 氷河にしてみれば――今の氷河には――、それはあってはならないことだった。 カノンは、教皇位を簒奪し、よりにもよって聖域で酒池肉林をしでかしていたジェミニのサガの実弟である。 かつては海皇ポセイドンを手玉にとり、アテナへの反逆を企んだ男である。 そんな輩に権力を持たせたら いったい何をしでかすかわかったものではない。 氷河は主に瞬の身を案じて、紫龍の発言に異を唱えた。 しかし、沙織はカノンのそういう過去をすら長所として受けとめているらしく、氷河の反対意見を柳に風と受け流してみせたのである。 「だからこそよ。『悪に強きは善にも強し』と言うでしょう。彼は適任だと、私も思っているわ。だいいち、他に適任者がいないでしょう」 「俺がなるっ! 俺が教皇にでも何にでもなってやる!」 氷河のその痴れ言には、さすがの星矢も呆れた顔になったのである。 氷河が教皇になったりなどしたら、その瞬間に聖域の権威が失墜することは火を見るより明らかではないか。 「おまえ、地上を滅ぼす気かよ」 星矢のぼやきで、氷河の大胆な提案は即座に却下されたのだった。 ただし、その提案が却下されたことに最も安堵したのは、その提案を提出した氷河自身ではあったのだが。 「カノンは聖域を必ずや良い方向に導いてくれると思います……が、彼は私の要請を受けてはくれないでしょうね」 こうなれば、教皇の座に就く聖闘士は、カノンでさえなければ誰でもいい。 そしてカノンは、確かに沙織の言う通り、喜んでその地位に就くことを受け入れる男ではないように、氷河には思われた。 が、氷河が安堵の息を洩らしたのも束の間、沙織は重ねて とんでもないことを言い出したのである。 「だから、瞬の力が必要なのよ」 「どういう意味です」 尋ねたのは氷河だったが、沙織は瞬に向かってその答えを返してきた。 「色仕掛けで迫って、カノンに、教皇位に就くことを承知させてちょうだい」 「瞬に色気などない!」 瞬に口を開く間も与えず、間髪を入れずに氷河は断言した。 瞬が微妙に傷付いた顔になる。 自分の失言に気付いて大いに慌てた氷河は、この場を言い繕う言葉を考えなければならなくなった。 その隙を突いて、沙織はどんどん話を進めていく。 「その色気のなさが瞬の武器にして 色気なんじゃないの。カノンは意外に清純派が好みかもしれないわ。お願いね、瞬」 「それは……それがアテナのご命令なのなら、尽力はしますけど……」 「瞬〜っ!」 氷河のすがりつくような悲鳴も、先ほどの失言のあとでは、到底アテナの微笑みの敵ではなかった。 「命じたりなんかしないわ。お願いしてるの」 “お願い”されたらますます断れない瞬の性格を、さすがにアテナは心得ている。 かくして瞬はアテナの“お願い”に頷き、氷河に断末魔の雄叫びをあげさせることになったのだった。 「ま、そんなに深刻になるなよ。いくらカノンでも瞬をお稚児さんとして差し出せ なんてことは言わないだろ」 「清濁併せ呑み、瞬の闘い方も認めてくれる男が教皇になるのなら、新体制になった聖域も意外に期待が持てるのではないかと思うが」 悲嘆と苦悩と不安にくれる氷河に、あまり同情したふうもなく、彼の仲間たちが声をかけてくる。 氷河とて、それはわかっていた。 今の聖域に、カノン以上の聖闘士が存在していないことは。 だが、氷河が不愉快だったのは何よりも、自分がその事実を認めざるを得ないことだったのだ。 滅亡の危機を乗り越えたこの世界と聖域は、その世界を守るために命を懸けた者たちの思いを糧に 再生しようとしている。 多くの大切なものを失ったこの世界に残っているものは、今は希望だけなのかもしれなかった。 だが、希望だけは残ったのだ。 その希望の日々が、氷河には悪夢の日々になるかもしれなかったが。 Fin.
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