それを“惨事”と言っていいのかどうか――は、瞬以外の人間には判断しきれないところである。
しかし、少なくとも瞬にとって、それは間違いなく惨事であり、惨禍であり、これ以上ないほどの凶事にして災いだった。

「瞬ー。夕べは大丈夫だったかー」
どこから何をどう見ても昨夜は一睡もしていないと断言できる目をしてダイニングルームに下りてきた瞬に、今日ばかりは仕方あるまいと思っているらしい星矢が 間延びした声で尋ねてくる。
どこか虚ろでぼんやりした目を星矢に向け、生気も抑揚もない口調で、瞬は昨夜の大惨事を仲間に報告した。

「氷河、何にもしてくれなかった……」
「へ?」
「一緒のベッドに入って――僕はしっかり その気だったのに、氷河ってば『耐えることが愛だ』とか何とか訳のわからないこと言って、僕に指一本触れようとしないんだ」
星矢と、そして紫龍は、決してそれを“惨事”と思ったわけではない。
しかし、瞬の報告に強烈な意外の感を抱いたのは事実だった――彼等はそれを“椿事”とは思った。

瞬に何と言ったものかを迷った結果として形成された長い沈黙のあとで、紫龍が感嘆したように呟く。
「氷河の奴、解脱してしまったか」
「へ……へえ、よかったじゃん。これでおまえも毎晩ゆっくり眠れるようにな――」
「よくないっ!」
少々無理のある星矢の慰め(?)に、瞬は1秒の間も置かずに噛みついていった。
「よくない、よくない、よくない! 僕は、あんな聖人みたいな氷河はいやだーっ!」

瞬にきゃんきゃん吠えられても、氷河ならぬ身の星矢と紫龍にはどうすることもできない。
こればかりは、生死を懸けた闘いを共にしてきた仲間の友情をもってしても、どうなるものでもなかった。
「絶倫の次は禁欲かー。なんつーか、氷河って極端なんだよな」
「過激なばかりが愛情の証になるわけでもないだろうに」
そろそろ まともに氷河と瞬の相手をすることに空しさを覚え始めた星矢たちの前に、噂の白鳥座の聖闘士が煩悩の抜けきった清らかな顔を持って現れる。
すがすがしさを感じるほどに悟りきった氷河の様子を見た星矢と紫龍は、瞬の肩にぽんと手を置き、ささやかな(形ばかりの)慰めを口にしたのだった。

「ま、頑張って、元に戻すことだな」
「どうやって !? 」
「そりゃ、うんと色っぽく迫ってみるとか、ベッドで積極的にサービスしてみるとか」
「僕、色気なんかないし、ベッドでサービスなんてしたことないっ!」
全く悪びれる様子のない瞬のマグロ宣言に、紫龍はさすがに難のある顔になった。
「それも問題だと思うが……」
一応 紫龍は苦言を呈してみたのだが、確かにこの件で瞬がマグロでいることはさほどの問題ではないのかもしれないと、彼はすぐに思い直したのである。
だが、氷河がマグロでは話にならない。

「だって、氷河は、これまではそんなことしなくても――」
瞬はついに その瞳に涙をにじませ始めた。
瞬の涙の訳がわかっているのかいないのか、氷河は悟りを開いた仏陀のように穏やかな口調で、
「愛してるぞ、瞬。おまえのためなら、俺はどんなことにも耐えられる」
と、瞬に宣言してみせたのである。

それは、もしかしたら、瞬には喜んでいい言葉なのかもしれなかった。
瞬は氷河の心を疑ったことはなかったし、事ここに至った今では疑うこともできない。
なにしろ彼は、瞬のために――ただ瞬への愛のために――解脱することまでしてのけたのだから。
問題は、瞬がそんな氷河を望んでいない――という、その一事に尽きた。
愛とは、精神・肉体を問わず、一方的に押しつけるものではなく、相互作用なのだ。
ひとりだけで勝手に聖人の域に達してしまった氷河に、瞬は不満を抑えきれなかったのである。

「耐えなくていいことは、耐えなくてもいいんだってば!」
瞬の必死の訴えが、忍耐の極限を超えて悟りの境地に至った氷河の耳に届いているのかどうかは、はなはだ疑問だった。
「氷河、元に戻って〜っ !! 」
それでも叫ばずにいられない瞬の声は悲痛を極め、星矢と紫龍はそんな二人を眺めて溜め息をつくことしかできなかったのである。
なぜ氷河は こうも極端から極端に走るのか。
“中庸”という選択肢は彼の中には存在しないのか。
星矢と紫龍は、それが不思議でならなかったのである。


「過ぎたるは及ばざるがごとしと言うけれど――」
いつのまにか、沙織がその場に来ていた。
彼女は彼女の聖闘士たちが演じている愁嘆場を眺め、それから、氷河以上に悟った口調で言ったのである。
「これからも、私は、財団の収益に見合った慈善活動を、財団の運営に支障が出ない程度に続けることにするわ。自ら望んで痛みを受けようとするのは無意味なことのようね」
釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタは、苦行の無意味を知ることで悟りを得、仏陀になったという。
もしかしたら、この無意味な騒動によって真の悟りに至ったのは、実は氷河ではなく沙織だったのかもしれなかった。

「それがいいでしょう。愛を証明しようとして自分が倒れたら、それこそ相手を傷付けるだけだ」
解脱してしまった氷河の姿をちらりと横目に見てから、しみじみと紫龍が言う。
「沙織さんがしっかりと立っていることが肝心です。おそらく、愛を受ける者も、自分を愛してくれる者を愛しているのなら、相手が傷を負うことを望まないはずだ」
そしてまた、愛は証を立てるものではない。
それは、自ずから起こり溢れてくるものなのだ。
そこに作為性があってはならない。
顕示欲があってはならないのである。


「ね、氷河、しようよ。今すぐ、しようよ! 僕、すごくすごくすごおぉぉーーくしたいなー」
必死に氷河に誘いをかけている色気不足の瞬を見やりながら、沙織はゆっくり深く頷いた。
彼女の前には、彼女が進むべき一本の道が、長く静かに、そして 迷いなくまっすぐに伸びていた。






Fin.






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