「どうもありがとうございました」 再び生を得て地上に立った瞬が、ここまで氷河のミスを何千回となく見逃してくれたファラオに感謝して、深々と頭を下げる。 「礼を言う気持ちがあるのなら、おまえはもう二度と冥界には来るなよ。決して死んではならない」 ファラオは心の底から その不可能を願い、願ったことを言葉にした。 瞬がこっくり頷いて、傍らに立つ氷河に視線を巡らす。 「氷河。氷河もファラオさんにお礼を言って」 「礼? 俺が礼を言わなければならないようなことを、こいつがしてくれたのか?」 なにしろ3歩歩くと物を忘れるのが鳥頭である。 キグナスの聖衣のヘッドパーツは伊達ではないのだ。 氷河の言葉にひくひくと顔面を激しく引きつらせたファラオは、だが、氷河ではなく瞬に対して奇異の目を向けた。 「おまえは、こんな物忘れの激しい男のどこがいいんだ。これでは普段の生活にも支障が出るだろう。こいつはおまえのことも忘れかねない」 「氷河はものごとにこだわらない さっぱりした性格で、自分の命を奪おうとした敵すらも翌日には許してしまえるような寛大な心の持ち主なんです」 瞬が賛美する氷河の長所を、ファラオは、 「単に敵だったことを忘れるだけだろう」 の一言で切って捨てた。 瞬の言葉が事実だったにしても、実情はそんなところだろうと、ファラオは思わざるを得なかったのである。 それが、氷河にとっては実に不本意な意見だったらしい。 頭に鳥を乗せた男は、図々しくもファラオに反論してきた。 「俺は、自分は並み以上に記憶力がいいと自負しているが」 「なに? 貴様のような奴がいったい何を憶えているというんだ」 「俺は瞬を愛している。それだけは忘れないし、それだけで十分だ。俺は無駄なことは覚えないことにしている」 我こそは正義と言わんばかりの態度で言い切る氷河に、ファラオはあっけにとられ、そしてそれ以上に、 「氷河……」 鳥頭男の言葉を受けて ぽっと頬を染めた瞬に呆れ果ててしまったのである。 「あほか」 その一言を、瞬に向かって呟いたのがファラオ一世一代の大ポカだった。 その一言で、ファラオは氷河の逆鱗に触れてしまったのである。 「貴様、俺の瞬を阿呆呼ばわりしたな!」 ファラオが瞬を阿呆呼ばわりしたのは紛れもない事実で、弁明の仕様もないことだったのだが、たとえ自らの言動の弁明をしようという意思が彼にあったとしても、彼にはそれをするだけの時間は与えられなかった。 愛する瞬を侮辱されて怒り心頭に発した氷河は、前振りのダンスをしている間も惜しいと言わんばかりに迅速に、踊らないダイヤモンドダストをファラオに向けて炸裂させたのである。 かくして、氷河の怒りの凍気を全身に受けたファラオは、彼の故郷である冥界に下る坂をごろごろと転げ落ちていくことになった。 転がりながら彼は、薄れゆく意識の中で、金輪際アテナの聖闘士には関わるまいと固く固く決意したのである。 愛は死より強い。 だが、愛の作り出す狂気は愛よりも強いのだ。 人間がその胸に愛を抱いた存在である限り、たとえそれが人の死を司る神であっても、人の世を滅ぼすことは不可能であるに違いない。 人の死を司る冥界の王ハーデスと、知恵と戦いの女神アテナ。 神々の熱き戦いは、こうしてアテナの完全勝利で幕を下ろしたのだった。 Fin.
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■ 愛の作り出す狂気 : 単なる馬鹿であることも多い
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