「ああ、だが、人間だな。悲しいほどに」
ふいに、瞬の形を写し取った影の洩らす声が哀調を帯びる。

瞬の内面にまで入り込めるハーデスとは異なり、パンドラには瞬の心や記憶の内容まではわからなかった。
が、この冥界で起きていることは、彼女にもおおよそのことは見てとれた。
第一プリズンにある裁きの館でルネに責められ、瞬の心は崩れかけていた。

『僕が生きていくということは、それだけで、誰かを傷付けていくということなのかもしれない――』
瞬が――“ハーデス”の大切な器が――冥界の裁判官の鞭に巻かれ、その唇が嘆きの言葉を吐いている。
だが、ハーデスは動かない。
その意識すらも、今はこのジュデッカに留まったままだった。

「助けなくてよろしいのですか」
出すぎた真似と自覚しつつ、パンドラがハーデスに尋ねる。
「既に何者かが救いの手を差しのべているようだ」
抑揚のない声で、ハーデスは独り言のように呟いた。
ハーデスのその返答を受け取った時には、パンドラの目にも、第一プリズンの法廷で何が起きているのかが見えてきていた。
冥界に入り込んだアテナの配下の者が、冥界の裁判官の五感と判断力を錯誤させる技を放ったものらしい。
瞬はルネの裁きから逃れ、その命を永らえた。
ハーデスは最初から瞬の身を案じてもいなかったらしく、その結末に安堵した様子も見せなかった。

まもなく瞬は、生きて、清らかなまま、冥界の王の許にやってくる。
そのために生まれた瞬の、それが宿命であるのなら、誰に二人の邂逅を妨げることができるだろう。
アテナの聖闘士でさえ、その宿命の実現のために、意識せずにとはいえ手を貸してしまうのだ――。

「人間とは面白いものだ。そして、アテナの聖闘士は健気で可愛らしい。実に素直な魂を持っている。余は、早くあれが欲しい。あれを抱きしめたい。余は はたしてあの者に勝てるだろうか――」
ハーデスが初めて、自身の望んでいることを口にする。
瞬との出会いと接合を、冥界の王がどれほど切望しているのか――淡々とした声音の端々に見え隠れする熱を、パンドラは痛いほどに感じとることができていた。

「神であるハーデス様が人間に負けることなどありましょうか」
「それはわからぬぞ。瞬にとって、余は不必要な神らしい。――いや、逆に、もしかしたら余こそが瞬の唯一の神、瞬の真実の姿を映す鏡なのかもしれぬ。そうであれば、これほど嬉しいことはないが」
ハーデスはあくまで抑揚のない冷ややかな声で、だが、どこか楽しそうに告げる。――パンドラではなく、自分自身に。
パンドラはハーデスの真意を酌み取りかねた。

「真実清らかな人間などというものが、生きている人間の中におりましょうか。……なぜ あの者なのです」
パンドラは、それがずっと不思議だったのである。
確かに瞬は、地上に生きている他の者共に比べれば格段に清らかな心を持っている。
だが、『最も清らか』という評価は、相対的な審判の結果の優劣であって、瞬は絶対的に清らかなわけではない。
その上、瞬はアテナの――ハーデスに敵対する者の――陣営にあり、彼女の聖闘士として、普通の人間なら犯さずに一生を終えるだろうほどに深刻な罪を犯し続けてきた。
アテナという神の庇護があり、その神が掲げる大義のためとはいえ、幾人もの“敵”を傷付け倒してきた人間ではないか。

パンドラはハーデスの意を理解できずにいるのに、ハーデスにはパンドラの疑念が透けて見えているらしい。
ハーデスは、今はまだ影のものにすぎない視線を ゆっくりとパンドラの上に巡らせた。
「だからこそだ。瞬は大きな罪を知っている。深い闇を知っている。人は罪を犯さずには生きていられぬものだが、人は大抵は生きるために自らの罪と折り合いをつける。自らの内に光と闇の並立を許す。だが、瞬は、己れの罪と闇を知った上で、そのような妥協を求めずに光だけを求めている。 だからであろう、瞬は妥協を知っている他の人間とは違う」
光に恋焦がれているのは、もしかしたら冥界の王の方なのかもしれない。
謎であるのは、ハーデスにとっての瞬の方なのかもしれなかった。

「どこで その光を知った。なぜ諦めぬ――なぜ見失わぬ」
ハーデスが瞬の心に問いかける。
瞬の心は、ためらいもなく答えてきた。
「なぜ見失うことがあるの。僕の仲間たちはいつも輝いている。ううん、人はみんな輝いている。心弱くて、どれほど深い罪を犯しても、彼等はきっと美しい魂を持っている」

それは、ハーデスの器に選ばれた者の答えとしては完璧なものだった。
しかし、ハーデスが知りたかったのは、瞬の答えそのものではなく、瞬がどうやってその答えに至ることができたのか、だったのである。
「だが、そなたは人間、完全に強いだけの心を持っているわけがない。それでも、いつも光だけを見ていられるか。光だけを――」
ハーデスは重ねて、瞬の心に問いかけた。






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