「最近、氷河の奴、おかしくないか?」 「最近?」 紫龍の反問は、確認を入れてくる箇所が微妙に皮肉めいていた。 が、その話題の人物が氷河となれば、それは非常にありがちで、特に目新しさも感じられない皮肉である。 星矢は感心した様子も見せずに、言葉を続けた。 「いや、確かに奴はガキの頃からおかしい奴だったけど、最近は、そういう変とはちょっと違って、なんつーか……」 実は星矢は、つい最近、とある映画で『前行性健忘』なる病気の存在を知ったばかりだった。 そして、その症状が氷河に当てはまる部分が多すぎることに、昨日気付いた。 更に今日、まさしく“それ”としか思えない現実に遭遇し、彼は多大なる不安を抱いていたのだ。 『前行性健忘』――すなわち、事故等の原因によって脳の海馬部分に負った損傷のために、一定期間(年単位のこともあれば、数日、数時間、数十分単位のこともある)しか記憶の蓄積ができない病気――である。 それは、ひどい時には数分前のことも忘れることがあり、日々の生活にも重大な支障をもたらす深刻な病だという話だった。 氷河の病は――もし、彼がそうなのだったとして――そこまで重症ではないようだったが、数時間レベルで彼の記憶は失われているように、星矢には思えていた。――今は確信すらしていた。 「俺、今朝、裏庭の林の中で氷河の姿を見掛けたんだよ。で、さっき、あんなとこで何してたんだ?――って訊いたら、氷河の奴、そんなとこ行ってねーとか言いやがんの」 「おまえの目の方がおかしかったという可能性は?」 「俺は、そん時氷河が落としたノーザンクロスのロザリオを拾って、奴に手渡そうとしたの! 見間違えたはずがない」 確かに星矢は、そこで氷河の姿を見たのだ。 それは間違いない。 紫龍にきっぱり断言してから、星矢は、それでなくても沈鬱だった表情に、更に困惑の色を加えた。 今朝拾ったロザリオを、彼がすぐに氷河に返すことなく数時間もその手に持っていた訳。 それは氷河の健忘症を懸念してのことではなく、別の理由があったのだ。 「落としたっていうより、捨てたように見えたんだよな……」 だが、そんなことがあるはずがない。 自分の目で見た現実を得心できないことが、星矢を今までためらわせていたのだった。 「捨てた……?」 それまで星矢と紫龍のやりとりを脇で聞いていた瞬が、ゆっくりと顔をあげる。 星矢と紫龍の口の悪いのはいつものことで――“悪さ”の種類がそれぞれ異なるにしても――彼等は基本的に仁義と友情に篤い人間であることを知っている瞬は、それまで二人の氷河への好意ある悪口を、むしろ微笑ましい思いで聞いていた。 実際に氷河は情報の取捨選択が呆れるほど明確で、彼自身が不要な情報と判断したものは容赦なく忘れてしまえるという、機械のような合理性を備えているところがあったのだ。 だが、氷河が彼のロザリオを捨てたというのは聞き捨てならない話だった。 それは彼の亡き母の形見、記憶する価値や意味のない情報とは訳が違う。 それを捨てるということは、彼を構成している人間性の一部を切り捨てることと同義ですらある――と、瞬は思った。 それは、有益でないと判断した情報を記憶域から消去するのとは次元の違う行為なのだ。 瞬が不安になったのは、氷河がそういう行為に及ぶ理由に心当たりがないでもないから――だった。 そして、自分の推察が正鵠を射たものだったとしても、氷河は決して それを捨ててはならないと思うからだった。 |