いちりんのなのはな






氷河が、青銅聖闘士たちの私室のある2階から、エントランスホールに下りる階段に最初の一歩を踏み出したのは、その日の太陽が空に顔を出してから既に2時間以上が過ぎた頃だった。
『春眠暁を覚えず』とはよく言ったもので、春の朝の寒くもなく暑くもない光の中で、氷河は、瞬が先にベッドを抜け出したことにも気付かず、長い惰眠を貪っていたのである。

今日は闘いはないだろう。
この1日を瞬とどう過ごそうかと、そんなことを考えながら身仕舞いをし、氷河は自分の部屋を出た。
そして、問題の階段に一歩を踏み出した時、肩に薄緑色のポシェットを掛けた瞬が城戸邸の玄関を出ていく姿を認めることになったのである。

エントランスホールには星矢と紫龍が立っていた。
瞬が玄関を出ていくと同時に踵を返した二人は、その時に初めて、階段の上に氷河の姿があることに気付いたらしく、
「随分 早いお目覚めだな」
と、朝の挨拶になっていない朝の挨拶を氷河に投げてよこした。

「瞬はどこに行ったんだ」
「菜の花畑を見てくるとか言ってた」
星矢が、実に端的に事実だけを伝えてくる。
星矢はそれしか聞いていないようだった。

「なぜ」
氷河が短い疑問詞で尋ねたことは、なぜ瞬がそんなものを見に行くことになったのかではなく、瞬がなぜ一人で出掛けていったのかということだった。
そのあたりは心得ている紫龍が、口許にほとんど意味のない笑みを刻んで答える。
「瞬にだって、一人になりたい時はあるだろう」
「……」
可能性の問題として、それは絶対にないことではない。
だが、氷河は、即座に自分の中で『そんなことはありえない』と考え、紫龍の推察を退けた。

たとえば、氷河が一人になろうとするのは、それはいつも単なるポーズだった。
彼が一人でシベリアに帰ることはしばしばあったが、それは仲間たちの許に戻ってくるための行動であって、一人でいることを望んでのことではない。
自分が孤独を求めていないことを確認し、その事実に安堵し、そして彼は仲間たちの許に戻ってくるのだ。
しかし、瞬は――あの瞬に“孤独を求めるおそれ”などあるものだろうか。――あるはずがない。
瞬は、仲間たちが危険な目に合わないよう、傷付いたり悲しんだりすることがないよう、自分が側にいて見守っていることに安心するタイプの人間だった。
その瞬が、一人になりたいと考えることがあるとすれば、それは、瞬自身が傷付いていて、仲間に心配をかけたくないと思っている時くらいのものである。
――つまり、瞬が一人でいたいと思うのは、瞬が一人でいてはいけない時だけなのだ。

無論、氷河はすぐに瞬のあとを追いかけた。






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