「それにしても、おまえはなんで急に 菜の花畑を見に行こうなんてことを考えたんだ。この時期に、桜を求めて北上するなら、まだわかるが――」 城戸邸の庭にも桜の木はあった。 とうの昔に花は散り、今は葉桜になってしまっていたが。 横目にちらりと その木を見てから、氷河は瞬に尋ねたのである。 氷河に問われた瞬は、少しだけ気まずそうな顔になってから、小さな声でその思いつきの理由を彼に告げた。 「それは……昨日 起きて窓の外を見たら、朝の空に月が消えずに残ってて――それで、山村暮鳥の詩を思い出したんだ。知ってる? いちめんのなのはな――」 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな それなら、氷河もそらで言えた。 なにしろ、フレーズが4種類しかない単調な詩である。 「菜の花畑の中で麦笛が響いてて、ヒバリが鳴いているやつか?」 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな ひばりのおしゃべり いちめんのなのはな 「うん。そして、空には病んだ月が浮かんでいる――」 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな やめるはひるのつき いちめんのなのはな それは、タイトルも『風景』という実にありきたりなもので、『病めるは昼の月』のフレーズがなければ、のどかな春の風景を 視覚と聴覚に訴える手法が少々前衛的であるだけの、何ということもない叙景詩にすぎない。 瞬が好むような詩であるとも、氷河には思えなかった。 実際に瞬は、その詩を好んでいるのではないようだった。 だが、気にかかる詩ではあったらしい。 「子供の頃からずっと、『病める昼の月』って何なのかがわからなかったんだ。それで、一面の菜の花を見たらわかるかもしれないって思い立って、急に見に行く気になったの。一面の菜の花」 『病める月』の正体など、わかってもあまりいいことではないような気がする。 瞬の説明を聞いて、氷河は我知らず眉をひそめた。 「それが何なのかわかったのか?」 「うん。僕のこと。菜の花は氷河たちだよ」 「……」 菜の花畑を見詰めていた あの1時間で、瞬は答えに行き着いていたらしい。 瞬からは即答が返ってきた。 その答えは、だが、氷河には素直に得心できるものではなかった。 瞬は、月よりも花にたとえられるべき人間である。 まして、『病んだ月』などというフレーズは、瞬に似合わないこと はなはだしい比喩ではないか。 だが、瞬は、自分が辿り着いた答えに、絶対の自信を持っているようだった。 「僕も普段は花の中にいるんだよ。でも、時々闘ってることが悲しくなって、菜の花畑からわざと外れた場所に行って、自分のいた場所を見てみるの。この世界は本当に、こんな苦しい思いをしてまで守る価値のあるものだろうかって。でも、離れたところから菜の花たちを見ると、それが すごく綺麗で優しいものに思えてきて、その中の一人でいたいっていう気持ちがすごく強くなる。そして、僕は月でいることをやめて、菜の花畑の中に戻るんだ」 昨日――消えかけた月が菜の花の中に戻るのを確認して帰ってきたと、瞬は氷河に告げた。 そう言う瞬の笑顔には、今は翳りが全くない。 「そうか」 それが瞬の“一人になりたい理由”だったというのなら、氷河にも合点がいった。 『皆の許に戻ってくるために』――それは、氷河が一人になる時の理由と同じ理由だったので。 懸念が杞憂であることが確認できると、氷河の中には皮肉を言えるだけの余裕がでてくる。 今は菜の花の姿をしている瞬に向かって、氷河は、わざと拗ねたような顔を向けた。 「俺は、おまえにとって、星の数ほど咲いている菜の花の中の1つにすぎないのか」 「そうだよ。でも、どんなに広い菜の花畑の中でも、どの花が氷河なのか、僕にはすぐにわかるんだ」 瞬の答えは、今回もまた即答だった。 その即答で、氷河は機嫌を直したのである。 そして、その手で瞬の肩を引き寄せ、抱きしめた。 「僕が生きていくために必要なものは全部、ここにあるんだって思うよ」 氷河の胸に頬と手の平を添え、呟くようにそう言って、瞬は目を閉じた。 途端に、瞬の視界に暖かく優しく明るい風景が広がる。 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちりんのなのはな いちめんのなのはな 瞬にとって、それは、命に代えても守りたいものだった。 Fin.
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■ 『風景』 山村暮鳥(1884〜1924)『聖三稜玻璃』より。著作権は切れています。
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