「氷河は氷河の国の難民が減って、二つの国が平和になればいいの? 贅沢な暮らしをしたいとか、歴史に名を残したいとか、そういうことは本当に望んでいないの?」
ここ数日避けていた氷河のもとに足を運び、瞬は前置きもなく彼に尋ねた。
「今は、おまえ以外に欲しいものはない」
一国の王としては極めて不適切だが、今 この事態に際してはこれ以上ないほど幸運な答えが、氷河から返ってくる。
その言葉に酔いそうになる自分自身を叱咤して、瞬は彼に進言した。

「なら、誰でもいいから少人数の講和施設団を編成して、敵の陣営に赴かせ、華胥の国の東の国境にある山を東夷に割譲すると提案させて。あの山にはダイヤの鉱脈があるの。本国から連れてきた兵を全部ダイヤ鉱山の鉱夫にしろと、東夷の王に提案して」
「ダイヤ?」
「そんな石、オレンジ1個ほどの価値もないものだと思うけど、そう考えない人も多いようだから」
今は特に、氷河の国や瞬の国のある大陸とは違う大陸から来る商人たちが、それを法外な値段で買い求めている。
西戎の俗人たちの中には、華胥の国の宝物殿からそれらを持ち出して私腹を肥やそうとする者たちが多くいたことを、瞬は知っていた。

「あの山は、掘り進むと地下から湧き水が出るの。その水による犠牲者も多くて、だからもう20年以上 採掘は行なわれていない。その水の処理方法を教えると言って。鉱夫を数千人単位で動員させることができるなら、それは可能だから」
「そんな都合のいい話を、東夷の王が信じるかどうか」
「与えるだけだと疑われると思うから、代わりに麦を要求して。うんと切羽詰まった様子で。華胥の国は征服する価値もないほど窮乏していると、東夷の王に思い込ませるの」
思い込ませるまでもなく、それは事実である。
国を富ませる資源があることを知っていても、そのために動員できる人間を、今の華胥は有していない。
ダイヤ鉱山の存在など、今の華胥の国には、まさに宝の持ち腐れだった――意味のないものだった。

「好んで平和を乱そうとする人間は見栄っ張りが多い。自分の力を誇示したい、称えられたい、歴史に名を残したい――そんなことが大事なの。瀟洒を好む者も多い。おそらく、東夷の王は乗ってくる。今は昔の栄光以外に何もない僕の国を支配することなんかより、ダイヤの方がはっきりと目に見える戦果だもの」

とは言え、それはかなり勝算の少ない賭けだった。
東夷が、北狄と華胥の連合軍に勝てるという絶対の自信を持っていた時、その提案は東夷の王によって一蹴されるだろう。
その場合、東夷の王は、ダイヤはこの国の支配権を北狄から奪取した後に手に入れればいいと考えるに違いないのだ。

だが氷河は、瞬の提案に、ほとんど気楽にも見える態度で即座に頷いた。
彼は、戦を回避できる可能性が見い出されたことより、このところ何事にも無気力だった瞬が 何かを為すために動き始めたことの方を喜んでいるようだった。
「やってみる価値はありそうだ。俺自身が行った方がいいな。すぐ発つことにしよう」
「……」
氷河のその言葉に、瞬は頷くことができなかった。
もちろん、北狄の王自らが東夷軍の陣営に出向くことは、東夷の王の信用を得る上で非常に有効な一手である。
だが、瞬は、それを氷河に勧めることができなかったのだ。

「あなたがもし、この国が乱れることを望んでいないのであれば、あなたは自分の兵を引き連れて東夷の軍営に行くことはできない。民に戦が始まったと思われるのは得策じゃないから、少人数で敵地に乗り込むしかない。――もしかしたら、あなたは死ぬことになるかもしれない」
「人間はいつか死ぬさ」
「僕も連れていって。きっと役に立つから」
「死ぬかもしれない場所へ? それはできない」
死ぬのなら共に――瞬のその願いを、氷河は笑って一蹴した。

「人間はいつかは死ぬものだが、俺は、おまえには生きていてほしい。そして、俺以外の誰かの手によってでも――幸せになってほしい」
氷河は何を笑っているのかと、そして、何を甘いことを――甘く残酷なことを――言っているのかと、瞬は彼の拒絶に憤ったのである。
これから彼が赴く場所は死地であるかもしれないというのに、他人の幸福を願って何になるというのだ。

「僕は幸福になるのに、人の手を借りたりしない! 自分ひとりの力で欲しいものは手に入れられるから!」
瞬が噛みつくように告げた言葉に、氷河が両の肩をすくめる。
まるで機嫌の悪い猫をあやすように、瞬の髪を撫でて彼は言った。
「おまえは恐ろしく賢いのに、どこかが抜けているな。人はひとりでは幸福にはなれないものだ」
「……」

瞬はなぜか、氷河のその言葉に虚を衝かれたような気持ちになった。
反駁の言葉が見付けられない。
それが、誰にも否定できない真実だから返す言葉を見付けられないのだと 瞬が気付いた時には、氷河は既に東夷軍の陣に向かうために、瞬の前から立ち去ったあとだった。






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