「僕は本当は、僕の偽りの姿を捨てさせてくれる人が現れるのを待っていたの。知恵のない予言者でいることも、有名無実な王家の末裔であることも、それは僕の本質じゃなくて――僕は、僕をただの僕にしてくれる人を待っていたんだ」
『つらかったか』と氷河に尋ねられた際の、瞬の答えがそれだった。
ほんのりと、瞬の目許は羞恥の色に染まっている。
なぜ素直に『気持ちよかった』の一言を返してこないのかと、その一言で男は安心するのにと、氷河は、その腕で瞬の肩を抱きしめながら思っていた。
さかしすぎる恋人というのは、なかなかに無粋なものだ――とも。

しかし、瞬はそんなオトコの気持ちなど まるで知らぬげに、彼の言葉を続ける。
「僕は――自分が生き延びるためじゃなく、国のためにでもなく、誰か一人の人のために考えを巡らせたのは、これが初めてだった。僕は、氷河の命を永らえさせるために自分が役立てたことが嬉しくて――」
瞬が、氷河の裸の胸に頬を押し当ててくる。
それから瞬は、消え入りそうに小さな声で、
「氷河に抱きしめられている間ずっと、幸福の木の実を食べているような気分だった」
と、氷河の胸に向かって――氷河の顔を見ずに――告白した。

それで、氷河は理解したのである。
瞬は『気持ちよかった』という一言を、恥ずかしくて口にすることができずにいるのだということを。
だから、別の言葉でその“結果”を伝えようとし、知恵がまわるせいで それができてしまう。
事実、今 氷河の胸に押し当てられている瞬の頬は、二人がつながっていた時よりも熱く 熱を帯びていた。

「賢しい恋人もいいものだな」
大いに満足し、そして安堵もした氷河の胸に、今度は瞬の指が伸びてくる。
「氷河は、この国の政情が落ち着いたら、北の草原に帰ってしまうの?」
否定の返事を求めていることを、瞬の指先は、その微かなためらいで氷河に伝えてきた。
つまり、瞬は、『ずっと僕の側にいて』が言えずにいるのだ。
この賢しすぎる恋人は、少々可愛らしすぎるのではないかと、氷河は正直 苦笑を禁じ得なかったのである。

「そういえば、どこぞの偉大な哲学者が、人は一人では幸福になれないと言っていたな」
可愛らしすぎる賢人が、氷河のその言葉を聞いて、ぱっと瞳を輝かせる。
それから瞬は、気負い込んだように言葉を重ねた。
「お偉い哲学者なんかじゃなく、北の草原からやってきた綺麗で優しい王様がそう言ったって、僕は聞いたよ」
「きっと同一人物なんだろう。――安心しろ、俺はずっとおまえの側にいる」

利口な瞬は、時々なら、彼の恋人が北の草原を駆けるために出掛けていくことを許してくれるだろう。
自由を好む者を自分に縛りつけておく術を、瞬はしっかり心得ているに違いない。
瞬を手に入れたつもりで、その実 瞬のものになってしまったのは自分の方なのだということを、氷河は 事ここに至って自覚した。
無論、後悔はない。
氷河にとっても、瞬は幸福の木に実る甘い果実だったから。












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