瞬がラウンジに飛び込んだ時、氷河はラウンジのドアの方を向いた肘掛け椅子に腰をおろしていた。 息せき切っている瞬の“気配”を認めると、抑揚のない声で、 「10時2秒前。ぎりぎりセーフだな」 と言う。 その目は、瞬の“姿”を見ていない。 氷河が掛けている椅子の横には、英国風の単脚のサイドテーブルがあり、その上にはティーカップの代わりにノートパソコンが一台置かれていた。 城戸邸内の無線LANに繋がっているパソコンのディスプレイには、グリニッジ標準時間が自動更新で表示されるページが映っている。 瞬がラウンジに飛び込んだ時、それはかろうじて 12:59:58 を示していたらしい。つまり、日本の時計の 21:59:58。 氷河のセーフの判定を聞いた瞬は、長く大きい安堵の息を洩らしたのである。 なんとか今日も自分は門限10時を守ることができた、これで氷河に責められずに済むのだ――と考えて。 確かに瞬は、午後10時という門限を からくも守りぬくことができた。 しかし、だからといって氷河の機嫌がいいかというと、そういうことは決してなかったのである。 彼は、この状況を、『瞬が門限を守った』ではなく『もう少しで破るところだった』ものと受け取ったらしく、冷淡な口調で瞬に皮肉を投げてきた。 「で、今日はどこで夜遊びをしていて、こんなぎりぎりの帰宅になったんだ」 「よ……夜遊びなんかしてないよ!」 氷河の皮肉に、瞬は、飢えて殺気をみなぎらせている虎に睨まれた兎のように身をすくませ、それから、持てる力のすべてを振り絞って首を大きく左右に振った。 「え……映画を――沙織さんに、映画の指定券をもらったの。今日だけ有効のチケットで、使わなかったら、沙織さんに悪いでしょ。だから……。6時上映開始の回を見て、8時15分に終わって、すぐに帰るつもりで駅に直行したんだけど、送電線の事故で電車が止まってたんだ。復旧には2時間以上かかるっていうし、仕方なくタクシーをつかまえたんだけど、そのタクシーが渋滞に巻き込まれて――」 瞬の必死の弁明を聞いても、氷河は眉ひとつ動かさなかった。 無言無表情の氷河の右手が、ノートパソコンのキーの上を素早く走る。 彼は、道路鉄道の交通情報のサイトにアクセスし、事故の有無とダイヤの乱れを確認することで、瞬の言葉の真偽を確かめようとしたらしい。 必要な情報を手に入れると、彼は瞬に冷ややかな視線を投げてきた。 「Y線の送電線事故は8時25分に復旧している」 「え? で……でも、僕が電車に乗ろうとした駅では、復旧に2時間はかかるって――」 瞬に向けられる氷河の眼差しが、更に冷ややかなものになる。 どう見ても、氷河は瞬を疑っていた――信じていなかった。 「ほ……本当だよ! 構内放送でそう言ってて、だから僕はタクシーで――」 瞬の弁明を、氷河はもはや聞く価値もないと思っているようだった。 瞬の懸命な訴えにも関わらず、氷河の冷めた瞳は一向に人間らしい温もりを取り戻そうとしない。 瞬は死刑宣告を受けた無実の罪人のように絶望的な気分で、冷徹な裁判官を見詰めたのである。 「ほ……ほんとなんだってば!」 氷河の下した判決に従容として従うことは、瞬にはできなかった。 瞬はまだ生きていたかったのだ。 氷河の掛けている椅子の横に移動し、震える指で、彼が使っていたパソコンのキーボードを叩く。 首都圏の各駅の連絡先の電話番号を確かめると、瞬は、手持ちの携帯電話にその番号を打ち込んだ。 コール音が3回。 電話に出た駅の係員が彼の所属する駅の名を言い終わる前に、瞬は電話に向かって叫んでいた。 「すみません! 今日の事故で電車を利用し損なった者なんですが、今日の事故、8時ちょっと過ぎ頃には、復旧に2時間はかかるって案内してましたよね?」 ここで彼が『その通りだ』と証言してくれさえすれば、瞬の命は保たれる。 生と死のデッドライン上で、瞬はまさに必死だった。 「あ、いえ、もっと早くに復旧したのは知ってるんです。でも、そういう案内をしていたっていうことを認めてほしいというか、あの、その案内を聞いて、僕、タクシー利用して、帰宅が遅くなって――いえ、クレームとかじゃないんです。そういう案内をしていたって、証言してほしいだけなんです。じゃないと、僕、あることないこと疑われて、好きな人に捨てられちゃう……!」 顔も知らない駅員に、瞬はほとんど すがりつかんばかりの勢いで訴えたのだが、それがあまりに感情的に過ぎたらしく、瞬の命綱を握る人物の返答はなんとも要領を得ないものだった。 彼は、いかにも当惑した声で、『落ち着いてください』を繰り返すばかりなのだ。 そんな瞬を見兼ねたのか、あるいは 下した判決を早く確定したいだけだったのか、氷河が取り乱している瞬の手から電話を取り、落ち着いた声で駅員に尋ねる。 「と言っていますが、事実ですか」 電話の向こうの駅員も、こんなクレーム(?)を受けつけるのは初めてだったに違いない。 それでも彼は、氷河の冷静な声を聞いて自らも冷静さを取り戻し、瞬の言葉を裏打ちする証言をしてくれたようだった。 「そうですか。お忙しいところ、ありがとうございました」 氷河が携帯電話の通話終了ボタンを押し、再度、冷ややかな視線を瞬に向けてくる。 それから彼は、 「そういう案内を2回構内に流したのは事実だそうだ」 と、駅員の言葉を瞬に伝えてくれた。 長く――尋常でなく長く――瞬は、今度こそ安堵の息を洩らしたのである。 これで氷河は、彼の被告人の無実を――少なくとも、このミスは故意に行なわれたものではないということを――認めてくれるに違いない――認めざるを得ない――のだ。 「あの案内さえなければ、僕、9時過ぎには帰宅できてたはずなんだ。僕は、氷河に疑われるようなことは何にもしてない。映画館で僕の右隣りに座ってたのは、小学生くらいの男の子とそのお母さんで、左隣りは中学生くらいの女の子で、映画は児童文学が原作の健全なファンタジーだったし、やましいことは、ほんとに何ひとつ――」 「わかった」 瞬の弁明を、氷河の抑揚のない声が遮る。 決して機嫌を直したわけではないようだったが、少なくとも氷河は瞬の弁明を受け入れてはくれたらしい。 閉廷の合図のように、氷河がノートパソコンの蓋を閉じると、極度の緊張感から解放された瞬は、ほとんど崩れ落ちるようにして、その場にへたりこんでしまったのである。 |