「沖合で海の色が二つに分かれている」
彼は、振り返らずにシュンに告げた――もしかしたら、それは独り言だったかもしれない。
「ああ、海を見てたの」
シュンは、ここの海しか知らなかったが、それが珍しい現象であるらしいことは、子供の頃から幾度も聞かされていた。
この浜から見える海は、岸から半海里ほど沖に出た場所で、西側に青い海、東側に銀色の海と、鮮明に二分されているのである。

「ここはちょうど地中海からの暖流とアゾフ海からの寒流が合流するところなの。でも、水温の差が大きい上に、それぞれの海水に含まれてるものが異質で、二つの潮はなかなか溶け合わない。青いところが温かい水、銀色に見えているところが冷たい水。銀色の海は、この季節でも 心臓の弱い人が入ったら命を落とすくらいに冷たいよ」

「潮が合流? こんなに岸に近いところでか」
彼が初めて振り返る。
その青い瞳に出合って、シュンは息を呑んだ。
こんなことがありえるだろうかと思い、同時に、ついにこの時がきたのだと思った。
瞳を見開いたシュンを見て、金髪の青年が怪訝そうに眉をひそめる。
シュンは震える膝に力を入れて、何とか その場に立ち続けた。
意識して身体に力を巡らせていないと、その場にへたりこんでしまいそうだった。
「あ……ごめんなさい。あなたが見たこともないくらい綺麗な人だから びっくりして……。あの、あなたはこんなところに何をしに――」
“見たことがある”のに そう言って、シュンは自身の驚きをごまかしたのである。
彼は、そういう驚かれ方に慣れているのか、シュンの動揺の訳を殊更追求することはしなかった。

「人を捜している」
「ひ……ひと?」
「ここは10年以上前はかなり栄えた港町で、たくさんの船が行き来し、人間も多く集ってきていたと聞いた。国の保護を受けたまともな商船も海賊船も、異国の者や異教徒や海賊にさらわれてきた奴隷――」
「うん……。僕が子供の頃には、ここは賑やかな場所だったよ」
「その頃――正確には12年前なんだが、俺と同じ色の髪をした女がここの港に来なかったか。当時、25、6だったと思う。今なら37、8か」
もうそんなにも長い時間が過ぎたのかと、シュンは、今更ながらなことを考えた。
思えば、あの頃が、この浜が最も賑わっていた時代だった。

「12年前だと、僕、まだ4つか5つだから――」
『そんな人は知らない』と言えば、嘘になる。
だから、シュンは、嘘をつかないために、自分の歳を隠れ蓑にした。
彼はそれで納得してくれたらしい。
子供の目に触れるものは限られており、その記憶も頼りないものであるに違いないと、子供だった頃の記憶を忘れた大人は考えるのだ。

「ここには、今は誰も住んでいないのか」
「みんな、東の港の方に移っていったの。この辺りに住んでるのは、今は僕ひとりだけだよ」
「おまえひとり? まだ子供じゃないか」
シュンにそう告げる異邦人も、さほど歳がいっているとは思えない。
この浜を出たことのないシュンに比べれば 余程多くの経験を積んでいそうではあったが、しかし、彼はシュンを子供と断じることができるほど歳を重ねているようには見えなかった。

「僕、灯台守なんだ。丘の上に石作りの家があるでしょ。あそこに夜 灯かりをともすのが僕の仕事。東の港の沖合いには、一箇所ものすごく浅いところがあって、船が座礁することが多いの。その場所を知るのに、あの灯台があるといいんだって」
「しかし、こんな寂しいところに」
「あの銀の海の底に、僕の大切な人が眠ってるの。だから、ここから離れられない」
「恋人か?」
「……」
あまりに思いがけないことを言われて、シュンは一時いっとき返事に窮したのである。
いっそ そうであったなら、あの銀色の海は自分にとって甘い思い出の沈む海ということになっていたかもしれないのにと、切なさと共に思った。

「僕、まだ16だよ」
「恋ができない歳でもないだろう」
たった今 子供呼ばわりした相手に、彼は平気でそう言ってのけた。
自分はいつのまにか そんな歳になっていたのだと、シュンは彼の言葉で初めて自覚したのである。
それからシュンは、軽く首を横に振った。
「こんなところで毎日海ばかり見ている僕は、みんなに変わり者扱いされていて、誰もまともに相手をしてくれないんだ。僕くらいの歳になったら、一山当てようって考えて、こんな寂れたところからは出て行こうとするのが普通なんだって」
自嘲気味に笑って、シュンはそう言ったのだが、彼はつきあいで笑うことすらせず、逆に真顔になった。

「それが普通かどうかは知らないが……もったいない。こんなに綺麗なのに」
シュンはその時、海藻を採るために潜った海からあがってきたばかりで、薄布を一枚身にまとっているだけの格好だった。
手足のほとんどを海風にさらしている。
まるで値踏みするようにシュンの全身を眺めたあとで出てきた彼の言葉に、シュンは戸惑い、僅かに瞼を伏せた。

自分より綺麗な人間に綺麗だと言われることのきまりの悪さ。
いっそ『それは皮肉か』と質したい気にならないでもなかったのだが、シュンは思い直して、そうすることをやめた。
シュンは彼に、他に確かめたいことがあったのだ。






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