「あのトルコの人が運んでくれたの。応急手当てもしてくれた」
ヒョウガが目覚めた時、彼は昨日まで幾度もシュンを抱いて過ごした部屋の寝床に横たわっていた。
シュンは相変わらず、海の底の色をした瞳を、海の底の水のように揺らして――シュンはいつも泣いているのだ――ヒョウガを見詰めている。
トルコの刺客は、ヒョウガのロザリオと髪をひと房だけ手にして、この浜を立ち去っていったらしい。
死に損なってよかったのかどうか、ヒョウガはまだ判断しかねていた。
が、現実にこうして死に損なってしまったのであるから、ヒョウガはそれを知らなければならなかった。
12年間の、彼の長い旅の結末を。

「なぜ、おまえが俺の母を知っているんだ」
「ナターシャっていうんでしょう。ヒョウガのお母さんの名前」
シュンは、自分を抱いてくれる男の命を引きとめるために出まかせを言ったわけではないらしい。
シュンが口にした名は、確かにヒョウガの母の名前だった。
シュンは一度大きく息を吸い吐き出してから、意を決したように語り始めた。

「ナターシャは、海賊に捕らえられたりしなかった。トルコのハレムになんて売られてるはずがない。彼女は12年前、ヒョウガがお母さんと離れ離れになった日、ヒョウガを追って海に飛び込んだの。でも、波でヒョウガを見失って――この港から出た商船に拾われて、この浜に来た。あの頃はまだ、この浜は漁港としても貿易港としても栄えてて、船の出入りも多かったんだ」

「マ……母は、どこに――」
シュンはそれには答えず、実際に怪我をして床に就いているヒョウガよりも苦しそうな眼差しを怪我人に向けてきた。
「ナターシャは記憶を失くしてた」
「なに?」
「憶えてたのは、“ヒョウガ”っていう名前だけ。ナターシャは若くて綺麗だったから、だから、そのヒョウガっていうのは彼女の恋人の名前なんだろうって、みんな噂してたんだ」

「母は――」
生きてるのか死んでいるのか、生きているのだとしたら、今彼女はどこにいるのか――。
ヒョウガが最も知りたいことを――それはシュンもわかっているはずなのに――シュンは語ろうとしない。
それでヒョウガにはわかったのである。
シュンの告白のあとに、幸福な結末――母との再会――を望むことはできないのだということが。
ヒョウガは、シュンの語る物語の続きを黙って待つことにした。

「ナターシャは帰るところもわからなくて、身体も弱ってて、でもトルコの言葉もルーシの言葉もイタリアの言葉もできたから、通訳として重宝して、町の世話役が用意してくれた家で一人で暮らし始めたの」
それらの言葉を、ヒョウガは母から教えてもらった。
ヒョウガを生き永らえさせたその知識が、では、記憶を失くした寄る辺ない女性の生活をも支えることになったのだろう。

「ナターシャは本当に綺麗な人だった。いつも寂しそうにしてたけど優しくて――僕、毎日のようにナターシャの家に遊びに行ってたんだ。ナターシャは時々、僕のことをヒョウガって呼んだ。だから、僕、きっとヒョウガっていうのはナターシャの恋人の名前なんかじゃなく、彼女の子供の名前なんだろうと思った。何もかも忘れてしまったのに、子供の名前だけは忘れない――お母さんってそういうものかと、僕はずっと、会ったこともない“ヒョウガ”って子を羨んでた」
シュンは、実母のことを全く憶えていないと言っていた。
母を知らない子供と、息子を見失った母親――ヒョウガは、幼いシュンと母とが寄り添う様を脳裡に思い浮かべた。
それはひどく美しいが、儚く悲しい光景でもあった。

「ちょうど10年前、僕が6歳になった頃、僕はナターシャに贈り物をすることを思いついたの。そうしたらナターシャは喜んで、僕のことをヒョウガじゃなくシュンって呼んでくれるかもしれないって思った」
ヒョウガが求め続けていたものの すぐ側にいて、シュンは――シュンもまた、それを手に入れようと必死に足掻いていたのだ。

「青い海と銀の海の境目の辺りにね、時々大きな貝が真珠を抱えてることがあるって話を、ルーシから来た船乗りに聞いたんだ。僕は、それを手に入れようとして海に小舟を出した。でも、あの海は潮の流れがすごくて、舟の扱いも知らなかった僕の舟はすぐに転覆してしまったんだ。最初に助けに来てくれたのがナターシャだった。ナターシャは、海に落ちてた僕を彼女が乗ってきた小舟に引き上げようとしてくれた。その間ナターシャはずっと、僕のこと、ヒョウガって呼んでた。ヒョウガ手を伸ばして、マーマが来たわよ、ヒョウガもう大丈夫、ヒョウガ、ヒョウガ、ヒョウガ――」
「……」

既にはっきりと思い出すこともできなくなるほどに薄れかけていた母の面影と声とが、突然鮮明にヒョウガの中に蘇ってくる。
二人きりで寄り添い生きてきた母子。
本当に互いだけが生きる支えであり、目的だった。
その支えを失って生きていられることがあるはずはないと思えるほどに、二人は二人きりだった。

「ばかだよね。僕、そんな時なのに……海に沈みかけてたのに、ナターシャにヒョウガじゃなくシュンって呼んでもらいたいって、そんなことを考えてたの……」
「マーマは――」
ヒョウガの生きる目的、ヒョウガをそれでも――孤独の中ででも――生かし続けていたもの――。

「僕はナターシャの舟に引き上げられて、でも、その舟もすぐにまた波に呑まれて、僕とナターシャは銀の海に投げ出されたの。そのうちに、他の男の人たちが助けに来てくれて、僕は彼等の舟に引き上げられたけど、でもナターシャは――」
氷の色をした冷たい水、生きる支えを失い弱っていた身体と心。

「手を差し延べても、ナターシャにはその手を取る力が残ってなかった。舟の上で僕は泣いてたのに、海に沈みかけたナターシャは笑ってた。ナターシャはきっと……ナターシャが記憶を失ったのは、自分がヒョウガを助けられなかったと思い込んだせいだったんだと思う。僕を助けて――“ヒョウガ”が助けられたのを見て安心して、ナターシャは――」

ヒョウガの求めていたものは――
「ナターシャは、今、銀の海の底で眠ってる」
もう10年も前に失われてしまっていたのだ。






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