♪ 恋はきまぐれな野の小鳥
    てなづけることなど、誰にもできぬ――


1週間前の午後、突然降り出した にわか雨が、事の発端だったらしい。
雨に濡れるのを避けるために瞬が飛び込んだ書店の店内に流されていたBGMが、ジョルジュ・ビゼー作曲・歌劇カルメンの『ハバネラ――恋は野の鳥――』だったのだ。
沙織のお供でオペラは観にいったことがあったのだが、そういえば原作を読んでいなかったと興味を持った瞬は、その場で『カルメン』の文庫本を購入したのだそうだった。

プロスペル・メリメ著、『カルメン』――。
燃える炎のように激しい気性の女・カルメンに恋をした男ドン・ホセが、彼女の気まぐれに翻弄され、殺人まで犯し、最後には自身を破滅させたカルメンを殺す――という、恋ゆえに愚かになった男の悲劇の物語である。
あまり瞬好みの話とも思えないのだが、瞬はそれをしっかり読み終えたらしい。

「お話の中にね、ドン・ホセが、カルメンに冷たくされて、腹を立てて街をさまようシーンがあるの。で、ドン・ホセは最後に教会に入っていって、それまでの激怒はどこへやら、そこでぽろぽろ大粒の涙をこぼして泣き出すんだよ。そこに、カルメンがやってきて、からかうみたいに言うんだ――『珍しい。龍の涙ってやつかしら。もらって惚れ薬でも作りたいねぇ』って」

「それがどうかしたのか?」
紫龍は、残念ながら、タイトルだけは有名なその物語を読んだことはなかったが、瞬の話を聞く限りでは、それは さほどの名シーンでもなければ、名セリフでもない。
そもそも それが、全米欧豪が泣いたアニメ映画や、本格的エチオピア風カレーや、フランダースの犬と どう関係があるのか、彼には全く理解できなかった。
そんな紫龍にじれたように、瞬が言う。
「だから、紫龍の涙で惚れ薬が作れるんじゃないかと思ったのっ!」
「なに?」
「へ……?」
「……」

『一同唖然』という言葉を、今使わなくて、いつ使うことができるだろう。
半分怒鳴るような瞬の訴えに、瞬の仲間たちは、もちろん揃って唖然としたのである。

長い沈黙のあと、最初にその沈黙を破ったのは、紫龍その人だった。
呟くように、彼は言った。
「俺の涙で惚れ薬……?」
常識的・科学的に考えて、人間の涙でそんなものができるはずがない。
中世の魔女全盛の時代ならまだしも、遺伝子の意味を知り、物体の構成を素粒子まで知り、宇宙に出る術をも知っている現代人が、そんな迷信を本気にするなど、あってはならないことである。
だが、とにかく彼等は、それで、ここ数日間の瞬の理解の難しい行動の訳を知ることはできたのである。
それらはすべて、龍の涙――紫龍の涙――を手に入れるための、瞬の必死の努力だったのだ。

が、瞬の行動の理由を知ることによって――その正否はともかく――合点することができたのは、その場では紫龍と星矢だけだった。
それが紫龍への特別な感情から出た行為ではないという事実を知らされて、最も気を安んじていいはずの男は、あいにく、その事態を、『なんだ、そうだったのか』と笑ってやり過ごすことができなかったのである。

「ちょっと待てっ! 瞬、おまえ、まさか、こんな長髪露出狂男の涙を俺に飲ませるつもりだったんじゃないだろうなっ!」
「え?」
「冗談じゃないぞ! こんな奴の涙なんぞ飲んだ日には、デリケートな俺の腹が拒絶反応を起こして、七転八倒すること間違いなしだ。確かに、これまでちゃんとおまえに意思表示していなかったのは俺の手落ちだと思うが、それは おまえの意思を尊重したかったからで、俺がおまえを好きでいることくらい、馬鹿で鈍感で食うことと寝ることと闘うことにしか興味のない星矢だって知っている! なのに、そんな自明の理を肝心のおまえがわかっていないとは何事だっ。薬なんかに頼らなくても、俺はおまえに惚れきってるぞ!」

「え……あ……あの、ごめんなさい。僕はただ――」
氷河の剣幕に恐れをなしたように、瞬が身体を縮こまらせる。
瞬のその様子を見て、どう考えても自分の語調が恋の告白に向いたものではなかったことに気付いた氷河は、慌ててその声音を穏やかなものに変えた。

「あ、いや、いちばん悪いのは、いつまでも何も言わず、おまえを放っておいた俺なんだが――」
わかってくれているものと、自信過剰気味の男は勝手に思い込んで油断しているものなのだ。
時にその手の思い込みに、氷河タイプの男は足元をすくわれることがあるのだが、幸い彼の場合はそうではなかったらしい。
「そんなことないよ!」
氷河の反省の弁を聞いた瞬は、即座に彼の言葉を否定し、それから、
「でも、そう言ってもらえて嬉しい。あの……僕も氷河が大好きだから」
と言って、ぽっと頬を桜色に染めた。

世界は自分の思う通りに動いていて しかるべきだと信じている男が、それでも瞬のその答えに、ほっと安堵の息を洩らす。
そして、彼は、彼の決定事項を瞬に告げた。
「ん。じゃあ、その、なんとかの犬の映画は、おまえは紫龍じゃなく俺と行くんだ」
「あ……でも……」
一応、瞬は、(氷河に比べれば)常識的かつ良識的な人間である(ということになっている)。
先に誘いをかけた相手が、氷河の決定事項に気を悪くはしないかと、瞬は不安げな目をして、ちらりと紫龍を見やった。
氷河の決定事項に対して、無論、紫龍に不満のあろうはずがない。

「構わんぞ。俺は」
『構わない』のではなく、そうしてもらった方が、紫龍としては 氷河に睨まれずに済んで非常にありがたかったのだが、そういう余計な一言を言わずにいる賢明を、常識人である紫龍はしっかりと その身に備えていた。
「うん、ごめんね。ありがとう……!」
不安が消えて安堵した瞬が、紫龍に謝罪と礼を返してくる。
瞬に、そんなふうに嬉しそうに はにかんだ笑みを見せられて、紫龍は、これまでに瞬によって被った迷惑のすべてを水に流さざるを得ない気分にさせられてしまったのだった。



「しっかし、なんでまた惚れ薬なんか……。そんなものに頼らなくても、さっさと好きだって言って、返事をもらえばいいだけのことじゃないか。相手は氷河だぜ? 瞬以外にあんな変人 好きになる奴なんかいるはずもないだろ。ライバルなしの、一人勝ち状態。瞬が薬に頼ることなんてないのに」
「まあ、面と向かって告白するのは恥ずかしいし、断られるのはつらいし――というところだろう。瞬らしいじゃないか」
瞬の奇天烈な行動も、その理由がわかってみれば、実に可愛らしいものである。
二人きりになれる場所に氷河に引っ張られていった瞬が、それまでいた場所を見詰めて、紫龍は、友情と寛大とでできた深い微笑を、その顔に浮かべたのだった。






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