「初めて?」
長い沈黙のあとで、氷河は瞬に尋ねてきた。――少し かすれた声で。
瞬が小さく縦に首を振る。
「誰もおまえに触れたことがないのか?」
氷河が重ねて尋ね、瞬は唇を噛みしめて再び頷いた。
「男も女も?」

どうして氷河はそんな追い詰めるようなことを幾度も訊いてくるのかと、瞬は既に これ以上ないほど泣いているにも関わらず、更に泣き出したい衝動にかられてしまったのである。
顔を俯かせていた上に、視界が涙でぼやけきっていた瞬は 気付いていなかった。
初心者丸出しで泣きじゃくっている瞬の様子を見詰めていた氷河が、やがて 現状に至った理由を理解すると、その顔に満面の笑みを浮かべたことに。

瞬の身体を抱き寄せ抱きしめ、声に喜色をにじませないように意識しながら、氷河は瞬の耳許に囁いた。
「馬鹿だな。俺はおまえを心から愛しているんだぞ。初めてだろうが、何も知らなかろうが、俺はそんなことは全く構わない。大事なのは、おまえが俺を受け入れてくれるということなんだ」
「で……でも、何も知らない非常識な人間は、氷河だって嫌いでしょう?」
氷河の胸の中で顔を僅かに上向かせ、瞬は上目使いに彼の表情を窺った。
自分の嘘を許すために、今度は氷河が嘘をついてくれているのだとしたら、瞬にはこれほど つらいことはなかったのだ。
が、氷河の声にも表情にも、瞬は嘘や無理を見い出すことができなかった。

「俺がどんな人間を好きとか嫌いとか、そういうことは この際関係ない。俺はおまえが好きなんだ。だから抱きしめたいと思った」
それはもちろん嘘ではない。
瞬が他の誰かのものであったことがなければいいとは思っていたが、それはただの我儘な願望に過ぎず、瞬を好きな気持ちを左右できる条件にはなりえないものだった。

「氷河はほんとに僕が何も知らなくてもいいの? これが初めてでもいいの? 僕、あの……これまで一度も誰かに もてたことなんかなかったんだ。そんなんでもいいの――」
女は、自分より可愛い男子には自尊心を傷付けられることを怖れて近寄らないだろうし、普通の男は男に手を出さないものである。
それでなくても瞬は、対峙する人間に『汚したくない』という気持ちを抱かせる雰囲気を漂わせた人間だった。
だから氷河も、これ・・をする決意に至るまでに、かなりの時間を要したのである。
人が人にもてない理由や事情は、それこそ人それぞれである。
大抵の場合、それは、その人間に魅力がないのではなく、その人間と その人間の魅力に気付く人との出会いがなかっただけのことなのだ。

「それは、おまえの魅力がわかるのは俺だけだからなんじゃないか? いわば、俺とおまえは運命の恋人同士なんだ、きっと」
いずれにしても、今の氷河には、瞬がもてなかった理由など どうでもいいことだった。
現金だとは思う。
現金だとは思うのだが、氷河は、瞬が彼の期待通りの瞬であったことが――否、期待以上の瞬であったことが――嬉しくてならなかったのだ。

「初めてなら初めてだと最初に正直にそう言ってくれれば、うんと優しく教えてやったのに。どうしておまえは、そんなことで俺ががっかりするなんて思ったんだ」
「氷河……」
「俺は優しい男なんだぞ。おまえにだけは」
ありとあらゆる場面において、次元において、氷河は正しく正直な男だった。
瞬の頬に、宣言通りに優しくキスをする。
瞬の涙は止まりかけていた。

「こういうことは、ゆっくり覚えていけばいいんだ。俺とおまえはこれからずっと一緒にいるんだから、急ぐ必要も慌てる必要もない。最初はおまえは俺に言われたことだけをしていればいい。緊張する必要もないぞ。難しいことをしろとは言わないから」
「氷河……」
自分にできることは 氷河に嫌われることだけなのだと思っていただけに、彼の優しい言葉は、瞬には驚き以外の何ものでもなかった。
もちろん それは嬉しい驚きで、嬉しすぎるからこそ瞬は、自らの不安を にわかに払拭してしまうことができなかったのであるが。

「ほ……ほんとに? 僕、氷河のためならどんなことでもするけど、したいけど、でも、どうすればいいのかがわからなくて、だけど、僕、氷河をがっかりさせたくなくて――僕、氷河に嫌われたくなかったんだ……!」
「俺がおまえを嫌うはずがないだろう」
氷河の言葉が、瞬の不安を消し去ってくれた。
瞬の耳許に優しく そう囁いた氷河の唇が、まだ少し濡れている瞬の睫毛に触れる。
その唇は優しい感触を保ったまま瞬の唇に重なり、それから殊更ゆっくりと更に下の方へと移動していった。

「あ……んっ」
それだけのことで、瞬は“色気のある声”を出すことができたのである。
出そうと努力していた時には決して発することのできなかった声。
それが自分の声ではないような気がして、瞬は困惑した。
だが、氷河の愛撫が優しいことが、瞬にその困惑を忘れさせてくれた。緊張も怖れも、瞬はすぐに忘れた。
そして、瞬の心と身体は徐々に夢見心地になっていったのである。

2番目に閲覧したサイトに『初めての時はかなり痛い』と書かれていたものも、それは確かに想像以上の痛みだったが、耳許で囁かれる氷河の言葉と吐息の方が、瞬にはずっと刺激的だった。
自分が、客観的に考えれば かなり恥ずかしい態勢をとらされていることにも ぼんやりと気付いてはいたのだが、その間も、夢の中を漂っているような瞬の気持ちが変わることはなかった。

「よく我慢してくれたな。ありがとう」
と氷河に礼を言われた時には、瞬こそが、未熟な初心者を寛大な心で受け入れてくれた氷河への感謝と感激の思いでいっぱいだったのである。






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