「養護老人ホームにいる おばあさんの昔話を聞いたんだ。90を超えてて、もうほとんど目も見えてなくて、ちょっと記憶力も頼りないふうの」 瞬の口調が楽しげでなかったのは、問題の“神通力”が自然の摂理を無視したことであり、本来はしてはいけないことなのだという認識があったからだった。 それでも自分が その摂理を曲げずにはいられなくなった理由を、氷河に知られたくなかったからだった。 「結婚して ふた月後に ご主人が戦地に行って、そこで亡くなって、ひとり残されたおばあちゃんは、父親の顔を知らない一人息子さんを、女手ひとつで苦労して育てたんだって」 先の大戦が行なわれた当時、そんな境遇に投げ出された哀しい母や妻は幾人も――それこそ、万単位でいたに違いない。 そんな女性たちの中の一人である老婦人に、瞬は、やはり女手ひとつで氷河を育てた彼の母親の苦労と悲しみを思わずにはいられなかったのである。 瞬はもちろん、その事実に言及はしなかった。 氷河が瞬の気持ちに気付いたのかどうかは、瞬にはわからなかった。 瞬の話を聞いても、氷河は無言と無表情を保ち続けたので。 「おばあちゃんの息子さんももう70近くて、お仕事からは引退して、自宅で悠々自適の生活をしてるんだって。その息子さんは40代の働き盛りで、先月そのお嬢さんが――おばあちゃんのひ孫に当たる娘さんなんだけど――結婚したんだ」 瞬の話は、どうやら ひとつの家の4世代にまたがる大巨編らしい。 家族というものに縁の薄い瞬の仲間たちは、それだけのことで――瞬の前振りを聞いただけで――何やら時代物の小説か映画のストーリー説明を受けているような気分になった。 「その……古い言い回しだけど、そのお嬢さんは、実家からよその家にお嫁に行くことになるわけ。それで、おばあちゃんは、そのお嬢さんに ひいお祖父さんの形見を持たせて、家から送り出してやりたいって思ったらしいんだ」 「つまり、そのばあさんの亭主の形見ってわけか?」 大河ドラマの人物相関図が今ひとつ把握できていないらしい星矢が、瞬に確認を入れてくる。 瞬は、小さく頷いた。 「うん。戦地で亡くなったご主人から、出征する直前にもらったブローチ。息子さん、お孫さんと卑属が男の子ばっかりだったから、おばあちゃんは、そんなこと、それまで考えたこともなかったらしいんだけど、その娘さんは亡くなったご主人の血を引くただ一人の女の子で、おばあちゃんは初めて自分の家族を家から外に出すことになるわけでしょ。だからね、よその家に行く娘さんに、お守り代わりにどうしてもそれを持たせてやりたいって、おばあちゃん、言ってた」 馬鹿らしい、そんなものが孫娘の身を守ってなどくれるものか――と言って笑うような人間は、その場に一人もいなかった。 その場にいたアテナの聖闘士たちは、家族とは、人の親とはそんなふうに肉親を愛し気遣うものなのかと、ほとんど憧憬に近い気持ちを抱いて、瞬の話を聞いていたのである。 「出征の直前に、二人で隠したんだって。郊外のどこかの林の木のうろの中に。万一空襲とかで家が焼けても大丈夫なようにって。銀細工の――花の形のブローチだよ。今となっては金銭的にはあんまり価値はないけど、当時は高価なものだったらしい。家は幸い空襲も免れて、おばあちゃんは何とか生き延びた。ブローチのことを忘れたことはなかったけど、それは最後の手段って自分に言い聞かせて、心の支えにして、苦しい生活に耐えたんだって」 「戦争が終わって平和になっても取りに行かなかったのかよ?」 「小さな子供を抱えて生活していくのは、戦争が終わってからの方が大変だったんだって。でも、だからこそ取りに行かなかったんだって。本当にどうしようもなくなったら、それに頼ればいい。でも、それはほんとに最後の最後の手段で、まだ自力でどうにかなる、まだ頑張れるって思いながら必死に――60年以上の時間を生きてきたんだよ」 「……」 命懸けの闘いなら、アテナの聖闘士たちとて幾度となく経験している。 死地と言って差し支えない場にも、彼等は幾度も自ら足を運んだ。 しかし、生きている日々のすべてが闘いであり続けたことは、そんな状況は、アテナの聖闘士たちも未経験だった。 勝利して生き延びるにしても敗けるにしても、明日には終わる闘いをしか、彼等は知らなかったのである。 「『あの子に持たせてやりたい』って、何度も繰り返すんだよ。あの人の形見、あの人の形見――って。あれさえ持たせてやれば、きっと娘さんはどんなつらいことも乗り越えられるに違いないって、おばあちゃんは信じてた。もうすぐ亡くなるって、自分でもわかってたみたいで――」 「わかってた……って……」 瞬の言葉が過去形だったので、星矢たちは、それまで考え及んでいなかったことに初めて気付き、知った。 その老婦人は死んだのだ。 死でしか終わることのない長い戦いを戦い終えて。 「自分だけおばあちゃんになっちゃって、若いままのあの人に会っても、あの人はわかってくれないかも……ってしょんぼりしてた。昔のことだし、戦地に向かう兵士のために周囲が慌ててお膳立てした お見合い結婚だったらしいけど、おばあちゃんには一生に一度の恋、亡くなった人は おばあちゃんにとって、あとにも先にもただ一人の夫だったんだ」 瞬がなぜ“そんなこと”をしたのか、瞬の仲間たちはわかるような気がしたのである。 瞬には決して手に入れることのできない種類の肉親の愛情、アテナの聖闘士のそれよりも はるかに長くつらかったかもしれない戦いを戦い抜いた強さ、恋する者の切なさと、戦いに愛する者を奪われた人間のやりきれなさ――。 その老婦人は、瞬の心を揺さぶるには十分すぎるほどのものを、その身に備えていたのだ。 「だから、確かめてあげたの。冥界に行って、おばあちゃんのご主人を探して――ご主人は、冥界の第一圏にいた。おばあちゃんが言ってた林ってどこの林だったのか、そのどのあたりの木だったのかを彼に聞いて、探しにいった。奥多摩の、まだ人家もないようなとこで、その木は60年経ってもまだ朽ちずに残ってた。自分が守ってきたものを正当な持ち主に返すまでは倒れるわけにはいかないっていうみたいに、教えてもらった場所に立ってたよ」 「そっか……」 星矢が、いつになく真面目な顔をして頷いた。 瞬が自然の摂理を破ることを、実は 自然そのものが待ち望んでいたのかもしれない――と思うと、人間が“自然”と考えていることだけが 必ずしも正しい自然であると言い切ることはできないような気がする。 少なくとも星矢は、瞬の自然の摂理に反した行為によって もたらされた結末を『よかった』と感じていた。 「硫化して黒ずんでたそれを、沙織さんに頼んで綺麗にしてもらって、おばあちゃんの目の前で、もうすぐお嫁さんになる人に渡した。結婚式の2日前だったかな。おばあちゃんは、それを見て安心したみたいで、今ここで死んだりしたら、お式を延ばさなきゃならなくなるかもって、ほとんど気力だけで それから数日生きてた。花嫁さんが無事に新婚旅行に発ったって聞いて、安心したみたいに ご主人のところに逝ったんだって」 自らに与えられた戦いを戦い抜き、伝えるべきものを伝えるべき人に伝えた老婦人の最期は、静かで穏やかなものだったのだろう。 瞬の為した行為は本来ならば決してしてはならないことだが、アテナまでが そこで一役を買っているとなると、それは瞬の仲間たちにも責められるようなことではなかった。 沙織がそれを瞬に許したのは、おそらく老婦人がまもなく、その面影だけで彼女を支え続けていた人の許に旅立つことがわかっていたからであったに違いない。 長い物語を語り終えた瞬が、ほっと短く吐息する。 それから瞬は、困ったように肩をすくめた。 「感激した息子さんが、それをあちこちに言い振らしちゃったらしいんだ――」 感動的な女一代記への感想はさておくとして、当座の問題はそれだった。 |