氷河と瞬が噂のアクアスタジアムに到着したのは、その日の太陽がすっかり海の向こうに没してしまってからだった。 小中学生はまだ夏休み中らしく、夜だというのに 来館者は親子連れが多い。 夜の海の様子を見ることができるように 月に何回か閉館しない日があるという水族館の、高さが10メートル以上ある巨大な水槽は各々がライトアップされていて、魚やクラゲたちがいなくても一見の価値がある神秘的な光景を、来館者たちの前に浮かび上がらせていた。 珊瑚の産卵を見ることができるという話は周知のことなのか、今夜は特に入館者が多いようだったが、幻想的な海の姿に圧倒されているのか、フロアにいる客たちは概ね静寂を保っていた。 「始まった」 それが始まったのは、夜の10時を過ぎてからだった。 光を反射して、直径1ミリにも満たない珊瑚の卵は、一粒一粒が宝石のように輝いていた。 「ほんとに雪みたい」 「雪というより、ダイヤモンドダストだな」 それだけ言って、他の来館者たちと同じように、氷河と瞬はしばらく無言で真夏の海に降る雪の光景に見入っていたのである。 「水族館の外の海にある珊瑚でも同じ日に同じことが起こるんだって。ナイトダイビングに来てるダイバーもたくさんいるみたい」 瞬が口を開いたのは、優に10分以上、二人が真夏の雪景色を堪能してからのことだった。 雪はまだ降り続いている。 「言葉も交わさずに、どうやってこの日を決めるんだろうね。外の光が無い水族館の水槽の中では月齢を知ることもできないし、珊瑚同士だって水槽の壁で隔てられてるのに」 「月齢の他に、潮の流れや水温や色々条件があるんだろう」 氷河のいたく現実的な推測が、瞬は気に入らなかったらしい。 無粋な恋人を、瞬は上目使いに軽く睨みつけた。 「氷河って、時々ものすごく非ロマンチックになるよね。言葉がなくても理解し合えているんだとか、せめて自然の起こす奇跡だとか言えないの。色々条件があるにしても、すべての条件が満たされるのを待ってたら、夏が終わるかもしれないのに、毎年必ず、水族館の外と内とで、彼等はこの奇跡を毎年同じ夜に起こすんだよ。水族館の水槽の中と 外の海と――違う世界に住んでいるのに、彼等はわかり合ってるんだ」 瞬にそう言われて初めて、氷河は、なぜ瞬が急に雪を見に行こうなどと言い出したのか、その訳を理解したのである。 水族館の水槽の中の海と 外の海。 違う世界に住んでいるにも関わらず わかり合うことができている物言わぬ刺胞動物たち。 死者と生者もそうなのだと、瞬は言っているのだ。 氷河と瞬自身とに。 二人に そう言い聞かせるために、瞬は二人がここにやってくることを計画したのだ。 それが事実であるのかどうか――。 そもそも死者の魂の住む国の存在をすら、氷河は確信できずにいた。 あの冥界が本当に死者の意思の在る世界だったのかということも、氷河は疑っていた。 あの冥界はあまりにも、生きている人間たちの人口に どこかに真実を含ませつつ、ハーデスが戯れに いずれにしても、死者の国の有無を論じることは、今この場では無意味なことである。 それは、生きている者は知らなくていいことであり、真実は知るべくもない。 生きている者にできることは、生きるためにその世界を思い描くことが必要な時に、その世界を思い描くことだけなのだ。 「俺とおまえが別々の人間であるにも関わらず、わかり合えているみたいに?」 「わかり合う方法って、色々あるんだと思うよ」 やっとロマンチックになってくれた氷河に、瞬が微かに頷き返す。 「違う世界にいて言葉を交わせなくても わかり合える人たちもいるだろうし、同じ世界に生きていて、すぐ側にいて話もできてるのに、それでもわかり合えない人だっている」 人間を“ 生者と死者、彼岸と わかり合えなければ戦いというものが起きる。 だが、わかり合おうと思う心があれば、人がわかり合うことは、住む世界や価値観が異なっていても可能なことであるに違いない。 それは綺麗な理想論でしかないのかもしれなかったが、わかり合おうという心がなければ、その理想が叶うことは決してない。 わかり合おうとする心を放棄することは、その可能性をすら捨てることになるのだ。 「言葉を持ってなくて、自力では動くこともできない珊瑚にだってできてることが、人間にできないないなんてこと あるはずないよね」 「全くだ」 少なくとも、今 共に生きて同じ場所に立っていられる自分たちだけは、わかり合うための努力を怠り死によって後悔するようなことにだけはなりたくない。 二つの隔てられた海の中で降る真夏の雪を、二人は寄り添い いつまでも見詰めていた。 Fin.
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