現実では悪夢が進行しているというのに、その夜、俺の夢の世界は平和そのものだった。
ガキの頃にマーマと行った、マーマの白い故国の夢を見ていたように思う。
だというのに、翌朝平和な夢から目覚めた俺を迎えてくれたものは、悪夢のような現実だったんだ。

「おにいちゃん、起きて」
俺は一発で目が覚めた。
背筋が、おぞましいほど気持ちよく ぞわわわわ〜と怖気おぞけ立つ。
何を考えているのかは知らないが、勝手に俺の部屋に入り込んだ瞬は、俺に起床を促すその言葉を、俺の耳許3センチのところで囁きやがったんだ。
俺は、バネ仕掛けの人形のように、ベッドの上に跳ね起きた。

俺のベッドの枕元に、制服に着替えた瞬が、俺の心臓が受けた衝撃に気付いたふうもなく にこにこ笑いながら立っている。
起きる早々、俺の脳の血管は再び危機的状況に陥っていた。
「その『おにいちゃん』というのをやめろ! 氷河だ! 氷河と呼べ!」
「じゃあ、『氷河、起きて』」
だから、そういう可愛い声で呼ぶなと言ってるんだ!
――と言ったところで、こいつは自分の声の持つ弊害に考えを及ばせることもできないんだろう。

健康な肉体を持つ青少年が、朝っぱらからそんな甘ったるい声を聞かされたら、脳の血管以外のところだって危機的状況に陥るというもんだ。
もっとも、今現在 俺がベッドを抜け出せずにいるのは、俺の脳より大事なところがとんでもないことになっているからじゃなく、全く逆の現象に見舞われていたせい――要するに、瞬のその可愛い声に腰が砕けかけていたからだった。
その事実を悟られないために 瞬から視線を逸らした俺の視界に、サイドテーブルの上に置いてあった時計の姿が入ってくる。
おかげで現時刻を知ることができた俺は、腹立ちを更に募らせることになった。
卓上時計の長針と短針は、見事としか言いようのない直線を描いていたんだ。

「まだ6時じゃないか! 俺はいつも7時起床なんだ。それから準備をして7時半に家を出れば、始業には十分間に合う」
教師もびくつく俺の怒声にも、瞬は臆した様子は見せなかった。
俺の裸を見れたのが嬉しかったわけでもないだろうが、相変わらず にこにこと緊張感のない笑顔を持続させている。
そして、その笑顔のまま、瞬は、
「だって、ご飯の支度をしなきゃならないでしょう?」
と、俺に言ってのけることをした。

「なに?」
いったい、こいつは何を言っているんだ?
俺に いつもより1時間も早く起きて何をしろと?
俺は、別に、女みたいな顔の同居人ができたからって、マーマと暮らしていた頃のように、朝起きたらうまい朝飯が食卓に並んでいる夢のような光景を思い描いていたわけじゃない。
だが、俺がメシを作らされることになるなんて事態はなおさら、夢にも思っていなかった。
それを、この図々しい弟は兄である俺に求めている。

「お母さんのお料理、すごくおいしいの。おにいちゃ……氷河は、そのお母さんの息子なんだから、お料理上手なんでしょう?」
にっこり笑って、瞬はそう言った。
更に、そこに、
「あ、ご飯だけは炊いてあります」
という報告が追加される。
ったく実に気が利く弟だ。
心憎いばかりの気遣いに泣けてくるぞ、俺は!

だが、あいにく、瞬のその理屈は根本的なところが間違っている。
料理上手の母親と暮らしている息子が、わざわざ自分の手でメシを作ろうなんてことを考えるはずがない。
かてて加えて料理の能力というものは、遺伝によって親から子に伝わるものじゃないんだ。
マーマの仕事は時間の融通のきく翻訳家、朝晩のメシと昼の弁当は、当然俺が作らなくても、いつもきちんと用意されていた。――以前は。
俺が料理上手なわけがない。

「俺はいつも朝は食わないことにしてるんだ!」
マーマがいなくなってから食いたくても食えなくなったというのが本当のところなのだが、ここで瞬に弱みを見せるわけにはいかない。
マーマのメシが恋しいと泣いて騒ぐ自分の腹をなだめながら、俺は瞬を怒鳴りつけた。
途端に、瞬が不満そうな顔になる。

「朝ご飯はちゃんと食べないと、午前中 身体や脳が働かないですよ。よくありません」
「そう思うなら、おまえが作れ! おまえは居候なんだから、それくらいするのは当たり前だろう」
「勝手を知ってて、上手な方が作るのが合理的だと思うけど」
「なに?」
合理・非合理を考えるより、長幼の序を考えたらどうなんだ!
歳も下で立場も下の者のために、なぜ俺が早起きしてメシを作ってやらなければならないんだ!

俺の睥睨に合って、瞬はさすがに俺の手料理を食うことは諦めることにしたらしい。
今頃になって自分の立場を思い出したわけじゃないだろうから、俺が料理を作れない可能性にやっと思い至ってくれたのかもしれなかった。
「でも……冷蔵庫はからっぽだし、朝は食べないにしても、夜はどうするの?」
間違った方向にのみ気が利くこの弟は、一応 冷蔵庫の中を確認するくらいのことはしたらしい。
なら、現在の俺の食生活がどんなものなのかくらい察しろというもんだ。

「コンビニか外食」
「外食?」
瞬が大いに不満そうに眉をひそめる。
糞生意気な弟に 不経済の何のとクレームをつけられることを予感して、俺は機先を制した。
「安い旨い早いの牛丼屋とか総菜屋とか弁当屋とか、世の中にはそういうのが いくらでもあるだろう。自分で作るより はるかに安上がりだ」
俺の合理的かつ経済的な攻撃は、だが、ほとんど戦果をあげられなかった。
対して、瞬の反撃は、合理性や経済性を超越した破壊力にあふれ、殺人的ですらあった。

「そんなの駄目! 絶対に駄目です! 氷河はグラード学園高校のプリンスなのに、それが牛丼なんて!」
「なんだ、そのプリンスというのは」
「え? あ、それは僕が勝手にそう思ってるだけですけど……」
「……」
正直、俺は、瞬のセンスに吐きそうになった。
そして、牛丼も自由に食えないらしい世のプリンスたちに心から同情した。
かてて加えて、激しい疲労感が俺を襲う。
常識の異なる人間の相手をすることほど、疲れることはない。

瞬は、それでも、俺が並みのプリンスでないことだけは理解してくれたらしい。
プリンスに朝飯を作らせようとする瞬の根性だけは 俺も認めてやらんでもないが、できないものはできないんだ。
「仕方ないなー。僕、帰りに何か食材買ってきますね。とりあえず、今日の朝ご飯は――」
やっと折れてくれたかと思った俺が甘かった。
瞬は意地でも朝飯を抜くつもりはないらしい。
「ねこまんまにしましょう。カツオブシはありましたから」
午前中 身体と脳を働かせることは、そんなに大事なことなんだろうか。
朝飯というものに対する瞬の執念に、俺は両手をあげて降参した。






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