その夜、それでも俺は瞬の立場を立てて、晩飯を食わず買わずで帰宅したんだ。
瞬はあまり料理の経験はないようだったが、昨今の世の中は、冷凍食品やら、食材を混ぜるだけで手軽にできる各種料理の素やら、便利なものが数多く出回っている。
それくらいのことは、俺だって知っていた。
朝飯にあれだけ固執していた瞬のことだ。マーマレベルとまではいかなくても、人間の食い物レベルのものは作れるに違いない。
そう期待したからこそ、俺はまっすぐ家に帰ったんだ。
しかし、その期待は、俺が玄関のドアを開けたまさにその瞬間、春の夜の夢のごとく、風の前の塵同様に霧散することになった。

家中に何かが焦げる匂いが充満していた。
嫌な予感を覚えつつダイニングキッチンに入った俺は、そこで、あり得べからざるものを見ることになった。
墨のように真っ黒な卵焼き――のようなもの。
丸ごとのジャガ芋とステーキ肉が、どう見ても生煮え状態で並んでいる肉じゃが――のようなもの。
あまりに大量に投入されてしまったせいで鍋からワカメがあふれ出ている味噌汁――のようなもの。
マンガでしか見たことのないような得体の知れない何かが、そこにはあった。

唯一食べることができそうなものが、ただ半分に切られただけの状態でサラダボールに入っているピーマン(のサラダのようなもの)だけというのは、俺に対する挑戦なんだろうか?
俺の大っ嫌いな、マーマですら食べさせることのできなかったピーマンだけがマトモに見える食卓なんて、俺は5秒と正視していることができなかった。
「牛丼屋に行ってくる」
そう宣言して踵を返した俺は冷酷な男だろうか?
「そんな!」
わざとらしい抗議の声をあげて俺を引きとめようとする瞬の方が よほど人非人だと、俺は思う。

「ひどい……。僕、一生懸命作ったのに……。そりゃ、お母さんのお料理に比べれば、ちょっとは見劣りするかもしれないけど」
「ちょっとだと !? 」
これが『ちょっと』の違いなら、ゾウリムシと人間の差異だって ちょっとしたもんだろう。
瞬の発言は、マーマをゾウリムシレベルに引き落とす、はなはだしい侮辱行為だった。
怒りを隠さずに俺が眉を吊り上げると、瞬は――俺と同じものがついているはずの瞬は――まるで大事にしていた人形をいじめっ子に奪い取られた幼稚園の年少組の女の子のように泣き出した。
本当にぽろぽろと涙を零して泣き出したんだ。
高校1年生にもなった日本男児がだぞ!

「あー、食う食う! 食うから泣くなっ!」
俺は結局、牛丼屋に行くことを断念して、悪夢以上の悪夢が並べられている食卓の椅子に腰を落ち着ける羽目になった。
泣きたいのは俺の方だ。

実際俺は、墨のような卵焼きを男泣きに泣きながら食った。
どう考えても、瞬の作った卵焼き(のようなもの)には、整腸剤が混入していた。
そうとしか思えないほど苦かった。
それでもピーマンよりは墨の方がマシだと思うから、俺はそれを完食したんだ。
我ながら男らしさの極みと感動せずにはいられないほど、それは勇気ある行動だったと思う。

そうして俺は、米の大切さを思い知ることになった。
瞬は、どういうわけか飯を炊くのだけはうまかった。
ボタンひとつで仕事をしてくれる炊飯器で炊いているんだから、水の分量さえ間違えなければ食えるものができるのは道理だが、同じ米を使っているらしいのに、瞬の炊く飯はマーマの炊くそれより はるかに美味い。
だが、他の料理はもう、泥を食う方がまだましと思えるほどに悲惨な味と姿をしていた。
マーマの出汁巻き卵がいかに素晴らしいものだったかを、俺は改めて思い知ることになったんだ。

瞬は一応、俺が我慢して その泥を食ってることはわかっているらしい。
泣くに泣けない複雑怪奇な顔をしている俺に、涙をたたえた瞳を向けて、
「僕、まだ下手だけど、必ず覚えます。きっとおいしいものを作れるようになりますから」
と、健気な決意表明をしてくれた。
その涙にほだされた俺が馬鹿だったんだ。






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