瞬が――瞬の方こそが 心を取り戻すことで、とりあえず一件は落着した。
氷河と瞬の間にあった誤解ともいえない誤解は解け、氷河の“目的”を知った瞬は、氷河の親切を正しく受けとめ評価するようにもなるだろう。
懸案事項のなくなったアテナの聖闘士たちは、とりあえず、麻酔がまだ効いている氷河だけを病院に残し、怪我のない3人は城戸邸に戻ることにしたのである。

「おまえが『きつねのおきゃくさま』なんて妙な話を持ち出すから、ややこしいことになったんだぞ!」
病院の正面玄関に向かう廊下で、そう言って星矢に責められた紫龍は、なにやら納得できない表情になった。
事態をややこしくした張本人はむしろ星矢の方だと、彼は思っていたのである。
「そうは言うが――。あの話で、太らせて食うつもりでヒヨコたちを育てていたキツネは、次第にヒヨコたちに本当の愛情を覚えるようになっていくんだ。最後にはキツネは、オオカミに食われそうになったヒヨコたちを守ってオオカミと戦い死んでいく。あれは、涙なしには読めない感動的な話なんだぞ」
「え……?」

『きつねのおきゃくさま』の物語の全貌を初めて知らされた瞬の頬は、にわかに青ざめることになった。
その物語の健気なキツネが氷河に重なり、瞬は不安で居ても立ってもいられなくなった。――氷河の姿の見えないところでは。
「ぼ……僕、やっぱり帰らない。氷河についてる」
「いや、氷河はちょっとアタマを打っただけで命に別状はないし、アタマを打ったくらいのことで、奴が今よりおかしくなるはずもないし、心配することは――」
「でも、ついてるっ」

それでなくても心配性なところに、今の瞬は氷河に対して深い罪悪感と後悔を抱いていた。
そこに そんなキツネの話を持ち出されて、瞬に平静でいろと言う方が無理な要求だったのだ。
瞬は、彼を引きとめる仲間たちをその場に残し、たった今辿ってきたばかりの廊下を逆方向に駆けだすことになった。


「氷河、大丈夫っ !? 」
「瞬……?」
城戸邸に帰ったはずの瞬が息せき切って病室に飛び込んできたのに、氷河は面食らった。
それだけならまだしも、瞬は氷河の病室に戻ってくるなり、氷河の枕元に取り付き、
「足、ほんとに痛くない? マッサージとかした方が早くよくなるのかな」
などと言いながら、今はまだ感覚が失われている氷河の脚を懸命に揉みだしたのである。

「お……おい、瞬」
「ほんとに大丈夫? 氷河、死なないで……!」
「そんな大袈裟な」
いったい何がどうなってこういうことになったのかは わからないが、氷河は瞬にそうされることに悪い気はしなかった。
麻酔が効いているせいで、瞬の愛撫の感触は全く感じ取ることができなかったのだが、瞬の気遣いは嬉しく、心は浮き立ち、やがては身体までが気持ちよくなっていく。

(気持ちいい……?)
それは変だと気付くのが あと1分早かったなら、氷河はその悲劇を避けることができたかもしれない。
しかし、人間というものは――特に快楽に支配されている時の人間は――その重要な1分に気付かないようにできているのだ。

常人ならあと1時間は続くはずの麻酔の効果。
しかし、氷河は、瞬が側にいると、その回復力が異様に増す特異体質の持ち主である。
その能力は、今日も健在だった。
氷河の某所は、よりにもよって こんな時こんな場面で、その驚異的な回復力を示し始めたのである。

「大丈夫……元気なようだ……」
ある意味では、それは非常に喜ばしいことだった。
だが、今はまずい。
どう考えても、今はまずかった。

「しゅ……瞬、今日のところは帰った方がいい。心配してくれるのは嬉しいが、ここには看護人用のベッドもないし」
冷や汗をかきながら、殊更さりげなさを装って、氷河は自分の上から瞬の手を遠ざけようとした。
しかし、氷河の身を心配する瞬は、氷河の焦りに気付かない。
「だって、僕、氷河が心配なんだもの」
「だから、心配しなくても、元気だと――」

言いながら、氷河がついちらりと、その視線を某所に投げる。
だが彼は、どんなに慌て取り乱していても、そうすべきではなかったのだ。
動体視力に優れている瞬が すぐに氷河の視線の動きに気付き、その視線の先を追う。
瞬は、そして、そこで起きている変化に気付いてしまったのだった。
薄い毛布越しに氷河の太腿の上に置いていた手を引き、瞬は氷河の寝台の側から一歩 後ずさった。

理屈ではわかっている。
それは決して生物学的なだけの反応ではなく、そこに氷河の好意という要素があって初めて起こり得る現象なのだということを、瞬は理屈の上では理解できているつもりだった。
しかし――。

「しゅ……瞬、すまん。いや、だが、その、これはつまり――」
おそらく この時氷河は、あくまでも沈黙を守り、何も起きていない振りを装い続けるべきだったろう。
氷河がしどろもどろで言い訳がましいことをぼやきだしたせいで、羞恥を伴う瞬の困惑は逆に大きく膨らむことになってしまったのだった。

氷河が 万事休すと思った瞬間、瞬は、
「氷河のばかーっ !! 」
と叫んで、病室を飛び出ていってしまった。
ドアの前で、ちょうど瞬を迎えに戻ってきた紫龍と星矢を突き飛ばし、瞬は病院の廊下を一陣の風のように駆け抜けていってしまったのである。

「おい、氷河! おまえ、まさか もう瞬を襲おうとしたわけじゃないだろーな!」
完全に的外れでもない星矢の非難に、氷河が怒声を返してくる。
それは、星矢には今ひとつ理解し難い雄叫びだった。
「どーして、男のカラダとココロは直結しているんだっ。俺は、男をこんなわかりやすい動物に作った神を恨むぞっ」
「氷河……おまえ、なに言ってんの?」
何を言っているのかと問われれば、氷河は『神について語っている』としか答えようがなかっただろう。

この地上に存在する主な一神教において、男性は女性に先んじて神に作られ、明確に女性に優越するものとして 神の恩寵を受けている。
それは、それらの宗教が劣等感に満ち満ちた男によって作られたものであるからに違いないと確信して、氷河は天を――正しくは病室の天井を――振り仰いだ。
アテナの聖闘士たちが――男も女も――彼等の女神を崇拝する真の理由を、氷河は今初めて理解できたような気がしたのである。
彼女は、何はともあれ見苦しい男ではないのだ。

「瞬〜……っ !! 」
瞬のいなくなった病室に、氷河が未練がましくも情けない呻き声を響かせる。
たった今この病室で何があったのかはわからなかったが、何となく『恋する男という商売は大変そうだなー』と星矢は思ったのだった。






Fin.






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