氷河と瞬がその店を出ると、そこには夕陽になりかけた小さな冬の太陽と、心地良くぴんと張り詰めた冬の空気とがあった。 氷河は、だが、冷たい外気に触れても、寒さを全く感じなかったのである。 もし彼が雪と氷の聖闘士でなくても、それは同じだったろう。 彼の心身は今、寒さを感じるどころではなく逸っていたのだ。 「ごめんね、ありがとう、氷河」 そんな氷河に、瞬は礼と謝罪の言葉を告げた。 瞬が何に対して礼を言い、何に対して謝っているのかが、氷河にはわからなかったのである。 面倒事を解決したのは瞬自身だったし、氷河は瞬によってどんな迷惑も被っていなかった。 彼はむしろ、瞬から希望の光を投げかけられたばかりだったのだ。 その希望を確信に変えるために、氷河は気負い込んで瞬に尋ねた。 「瞬、おまえが好きで好きで、その人のためならいくらでも頑張れる相手というのは俺のことか」 「知りません」 問われることを察していたらしく、瞬はほとんど間をおかずに すげなく答え、その視線をまっすぐ道の前方に向けてしまった。 しかし、そんなことで引き下がる氷河ではない。 彼は食い下がった。 「瞬……! だったらなぜ、100回も俺を振り続けてるんだ!」 氷河の期待に満ち満ちた視線を感じないわけにはいかなかったのだろう。 瞬は自分の隣りにいる氷河にちらりと横目に一瞥を投げ、それから小さな溜め息をひとつついた。 そうしてから、観念したように両の肩から力を抜く。 「だって……夢みたいで信じられなかったんだ。同等の一人の人間として氷河の前に立てるようになるために、僕はずっと頑張ってきたんだよ。なのに、こんなに簡単に夢が叶ってしまったら、僕は困る――」 「あの6年間が簡単だったというのか!」 瞬のその見解には、氷河は大いに異議があった。 側にいて見詰めていたい人と引き離され、普通の子供なら経験することもない つらい修行を重ねた日々。 それは、氷河にとっても決して楽しい日々ではなかったのだ。 「楽じゃなかったけど……みんなと離れているのはつらくて寂しかったけど、僕は、氷河のためにならあと10年くらいは頑張ってもいいと思ってた。それで氷河が僕のこと振り向いてくれなかったとしても、それは僕の努力が足りてないだけなんだし――」 「俺はそんなに大層な男じゃないぞ」 氷河には、それもまた不思議の一つではあった。 瞬がなぜ、幼い頃にはろくに言葉を交わしたこともなく、客観的に見れば大して親しくもなかった 髪の色の違う子供のために、そんなにまで『頑張ろう』と思ってくれたのか――。 氷河はもちろん、幼い頃から瞬が好きだった。 しかし、氷河はそのことを瞬に告げたことはなかったし、その思いを具体的な行動にしたこともなかったのだ。 そんな氷河に、瞬が薄く微笑む。 「氷河は――泣いてばかりで何もできなかった頃の僕を、いつも見ててくれた。兄さんみたいに直接僕を庇ったり守ったりしてくれたわけじゃなかったけど、でも、いつも僕を見ててくれた。いつも『頑張れ』って、『泣くな』って言ってくれてたでしょう?」 そう言ってから、瞬は僅かに瞼を伏せて、小さな声で言葉をつけたした。 「僕にはそう見えていたんだ」 ――と。 それはその通りだったので、氷河は瞬の言を否定はしなかった。 確かにそれはその通りだったのだが、氷河は瞬のその告白に驚いた。 言葉にされることのなかった幼い思いに、まさか瞬が気付いてくれているとは、氷河は思ってもいなかったのだ。 『いつも見ていてくれたから』――そんな理由で『いくらでも頑張れる』という思うことのできる瞬には、たった一度微笑みかけてくれただけのカラフ王子のために命を懸けた『トゥーランドット』のリューでさえ、驚きに目をみはるのではないだろうか。 「そんなことくらいで……」 「そんなことって言うけど! 僕には大切なことだったんだ……!」 瞬が少し意地になったような目をして、氷河を睨みつける。 そんな子供じみた様子ですら 瞬はどうしようもなく可愛いと、氷河は思った。 氷河の笑みを含んだ眼差しに気付いた瞬が、また目を伏せる。 「氷河に好きだって言われた時、僕はすごく嬉しかったけど、自信がなかった。それこそ、あと10年くらい氷河のために頑張ったあとでなら、素直に努力が報われたんだって思えたかもしれないけど、6年間ただ必死に生き延びたっていうだけで、あんまりあっさり夢が叶っちゃって――。僕は、だから、それが、なんだか ただの幸運にすぎないような気がして――僕はまだ努力がまだ足りてないはずなのに、氷河にふさわしいほど強い人間にはなれていないのに……って思って、恐くなったんだ」 「俺の方こそ、おまえに受け入れてもらうには、まだまだ努力が足りていないと思われているんだと思っていたぞ」 「え……」 瞬に告げられた言葉を、氷河が そのまま瞬に返す。 瞬は慌てたように、大きく横に首を振った。 「僕はそんなつもりじゃなかったよ!」 もちろん瞬はそんなつもりはなかった。 だが、過ぎる謙虚や卑屈は、傲慢と表裏一体のものである。 瞬の態度を氷河がそう理解したとしても、氷河の見方がうがっているとは誰にも言えないだろう。 その事実に気付き、瞬は、それまでの自分の態度を悔やむように切なげに眉根を寄せた。 瞬を責めるつもりはなかった氷河が、すぐに瞬のために その目許に笑みを刻む。 「それでおまえが自分の努力に納得できるようになるまで、あと100回も振られ続けていたら、俺はじいさんになってしまう」 この冗談を現実のことにしないでくれと、胸中では祈る思いで、氷河は瞬に訴えた。 それでも瞬は顔を伏せたままだった。 そうまで言われても、瞬は、努力の成果というよりは降って湧いた幸運としか思えない この現実を受け入れる決心がつかずにいるらしい。 自分を実際よりも低く見たがる人間も考えものだと、氷河は思ったのである。 いずれにしても彼は、瞬の気持ちがわかった今となっては、“じいさん”になるまで瞬を待つ気にはなれなかった。 なにしろ、人間に与えられている時間は限られているのだ。 だから、彼は瞬に提案した。 「いい方法がある。おまえ、まず 俺のものになれ。そのあとでだって“頑張る”ことはできるだろう。互いにふさわしい人間になれるように、二人で一緒に頑張ればいい」 「氷河……。でも、僕は――」 瞬が初めてその顔を上げる。 恐る恐る見上げたその場所に、瞬は氷河の青い瞳を見付け、その途端に瞬が告げるはずだった反駁の言葉はどこかに消え去ってしまった。 氷河の瞳を見詰めていると、子供の頃 いつもその身に感じていた懐かしい心地を思い出す。 その感覚に全身を包まれて、瞬は うっとりするように目を細めた。 「氷河の目……子供の頃から僕に『頑張れ』って言ってくれてる」 「おまえにも、俺自身にもな」 それは、彼が見詰めている人の可能性を信じているから言える言葉である。 氷河がその可能性を信じている人の可能性を、瞬もまた信じたいと思う――思った。 だから、瞬は氷河に頷いたのである。 頷いた途端に、『自分はこの青い瞳に子供の頃からずっと恋をしていたのだ』という思いがこみあげてきて、瞬はひどく幸せな気持ちになった。 Fin.
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