- II -






どうすれば氷河を心から憎み軽蔑できるようになるのか――氷河の内にも必ずあるはずの闇の部分を、白日のもとにさらけださせるにはどうしたらいいのか――。
毎日そればかりを考えている自分に、クロは気付いていた。
瞬の前では忠実な犬の姿を装っているあの男の獰猛さを 瞬に知らせ、己れの目でも確かめることができさえすれば、自分は氷河の存在を瞬の前から抹殺してしまうことに躊躇を覚えずに済むのだ――と。

だが、氷河は、犬のくせになかなか尻尾を出さない。
いらいらしながらダイニングキャビネットの上を見ると、時刻は既に夜の7時をまわっていた。
「瞬の奴、こんな時間まで何してるんだ。もうメシの時間なのに」
どうせ氷河と一緒に違いないと思うほどに苛立ちが増す。

捜しに行こうかと、クロがリビングのソファから腰をあげたときだった。
「ただいま」
玄関のドアが開く音と瞬の声が、クロの許に届けられたのは。
「瞬! 俺を飢え死にさせるつもりかっ!」
立ち上がったついでとばかりに、乱暴な足取りで玄関に向かったクロは、そこで、遅い帰宅をした瞬の姿に仰天することになったのである。

制服のネクタイを緩めたことなどない瞬の首から、グレイのネクタイが結ばれもせずにぶらさがっている。
どんなに暑い日にも外されたことのない瞬のYシャツや上着のボタンは、どれも留められていない。
それも当然のことで、瞬のYシャツや上着にはボタンがついていなかった。
その上、制服は土埃で汚れ、瞬の頬や手には小さな擦り傷が幾つも刻まれている。

「瞬……おまえ、そのかっこ、どうしたんだよ……」
「あ、なんでも……」
軽く脚を引きずりながら靴をスリッパに履き替えた瞬は、それでやっと自分の家に戻ってきたことを実感できたように、長く細い息をついた。
「なんでも……って、瞬!」
これが“なんでも”なかったら、押し込み強盗に拳銃を突きつけられても“なんでも”ないことになる。
瞬の隠し立てを咎めるように瞬の上着の襟に手を伸ばしたクロは、瞬の胸にまで擦過傷があり、しかもその傷に血がにじんでいることに気付いた。
瞬が、あからさまに慌てた様子で、ボタンの飛んだYシャツの襟元を傷だらけの手で引き寄せる。

「瞬、おまえ、まさか……」
「クロちゃん、今日はお寿司でもとってくれる? ごめんね。晩ご飯の材料、買ってくるの忘れちゃって」
「しゅ……」
瞬の身に何があったのか――言葉にして考えるのもおぞましい可能性に思い当たり、だが、クロはすぐにその可能性を自分の頭の中から追い払った。
そんなことは考えたくもない。
代わりにクロが考え、感じ、すがろうとしたのは、氷河への怒りだった。

「食い物、自分で買ってくる!」
それ以上 瞬の様子を見ていられなくて、クロはそのまま家の玄関を飛び出したのである。
そして、その足で氷河のマンションに向かい、ちょうど帰宅したところだったマンションの住人の後を追ってオートロックシステムをすり抜け、氷河の部屋に怒鳴り込んだ。
「ドアを開けろっ! おまえだなっ! 瞬にあんなことしたのは!」
マンションのドアを何度も音を立てて蹴りつけ、クロは通路に大声を響かせた。
まるで悪質な借金の取立て屋のようなクロの振舞いに驚きつつ、氷河は慌てて そのドアを開けることになったのである。

「瞬がどうかしたのか」
と尋ね終わる前に、氷河はクロに殴りかかられていた。
無論氷河は反射的にクロの拳をよけ、クロの拳は手応えも何もない空気を殴ることになってしまったが。
「おまえだろ! 瞬にあんなことをする奴、おまえの他に誰がいる!」
いったい氷河に瞬の弟の拳をよける権利があるのかと激怒して、クロは、一度は虚しく空を切った拳を再び振り回した。

その手を押さえつけてから、氷河はクロのただならぬ様子に眉をひそめたのである。
クロは一度 大義名を得てしまえば猪突猛進なところはあったが、決して馬鹿ではない。
むしろ知能犯に類するような人間である。
そのクロがこれほど取り乱すなど、よほどのことがあったに違いないのだ。

「ああ、そうだ、俺だ。だから、教えてくれ、瞬に何があった」
クロを落ち着かせるために、氷河は、いったん彼の言い掛かりをその身に引き受けた。
途端に、それまで無闇に振り回されていたクロの手から力が抜ける。
たとえ方便にでも、それは軽々に我が身に引き受けられるような罪ではない。
それができてしまう氷河は何も知らないのだということを、クロは認めざるを得なくなってしまったのである。
だが、瞬をあんな目に合わせた男が他にいるのだとしたら、それが氷河ではないのだとしたら、あまりにも瞬がかわいそうすぎるではないか。

氷河が卑劣で俗悪な男であってくれたならと、今ほど強く願ったことはない。
こんな深刻な場面でも、瞬の弟の願いをあくまで叶えようとしない氷河を、クロは心底から憎んだ。
「なんでもない!」

他に行き場所はない。
吐き捨てるような捨てゼリフを氷河のマンションに残し、結局クロは とぼとぼと瞬の待つ自宅に帰ることになったのである。






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