瞬を傷付けないためにはどうすればいいのか――。
一晩寝ずに考えてクロが辿り着いた結論。
それは、自分自身が傷付かないために瞬が作り出した架空の出来事を認めてやるしかない――というものだった。
瞬のために、氷河にできうる限りの忍耐と分別の動員を求めることだった。


「おまえがやったことにしてくれ」
クロにそう言われ、あまつさえ頭を下げられた時、氷河は、またしてもクロが姑息な小細工を仕組もうとしているのだと思ったのである。
瞬は敏捷だし、一輝の教育方針で小学生の頃から合気道を続けている。
有段者で――礼儀をやかましく言われることに苛立って、さっさと稽古を放棄してしまったクロよりも よほど強いのだ。ルール無用の喧嘩では、その限りでないにしても。
その瞬が、人質でもとられていたのでない限り、不埒な人間の暴力に屈することなど、まず考えられない。

だが、それがクロの企みでないことは、すぐにわかった。
そんなことで、クロが憎い男に頭を下げることができるわけがない。
クロは、自分が正しいことをしているという自負があるから、いつもまっすぐに他人を睨み、攻撃するのだ。
クロは、瞬を氷河に渡さないためにでも、虚偽を言い立てるようなことはしない。
多少乱暴なやり方を用いてでも、自分は正義で 相手は悪だという大義名分を打ち立ててから、クロは行動に出る。
もちろん、為された悪事を看過することもしない。
こんな画策は、クロの最も嫌うことなのだ。
まして、彼の言い立てていることの内容が内容である。

クロの画策を疑うことができなくなった氷河は、やり場のない不可思議な感情に襲われた。
なぜ瞬がそんな目に合わなければならないのか、氷河にはまるで理解できなかった。
瞬がいてくれたから、氷河は、これまで自分を取り囲む人や世界を憎まずに生きてこれたのだ。
そんな理不尽がまかり通る世の中ならば、そんな世界には存在する価値がない。
滅んでしかるべきだと、氷河は思ったのである。
そこが瞬の命がある世界だからこそ、氷河はこれまでこの世界を受け入れることをしてきたのだ。
瞬を傷付けるような世界なら、消えてなくなっても惜しいとは思わない――。

氷河は、正体の知れない暴行者に怒りを感じることもできなかった。
瞬に愛されていながら、瞬を愛し返さない世界のありようが憎い。
氷河の中には、言うべき言葉も表すべき表情も生まれてこなかった。
彼はただ憎しみに青ざめて、表情もなくクロの前に立っていた。

まるで死人のような顔をしている氷河の意識を、クロの悲痛な声が現実に呼び戻す。
「おまえに汚名を着せることは悪いと思う。でも、おまえだからいいって、瞬は言ったんだ。だから……。俺は瞬を傷付けたくないんだ。傷付けたくないんだよ……!」 
「瞬は……」
「嘘もごまかしも仕方ないだろ。瞬を苦しませないため、瞬を傷付けないためなんだから!」
「ああ……」

瞬のために怒り悲しむことを、クロは氷河に先立って昨夜のうちに済ませてしまったのだろう。
瞬の弟は既に自分の怒りに囚われることをやめ、瞬の心身を気遣う段階に至っていた。
だから、氷河は――氷河も――懸命に自分の感情を鎮め捻じ伏せたのである。

クロは、自らの正義を瞬のために曲げようとしている。
これまでに、クロを憎たらしい邪魔なガキだと思ったことはないでもなかったが、それでもクロは瞬の弟なのだ。
そして、クロは、瞬の心を思い遣ることを知っている。
それが、瞬を守るために自らの信念を曲げようとしている健気な瞬の弟の悲痛な願いだったから、
氷河はクロの共犯者になることを受け入れたのである。

だが、真実に気付いていない振りをして、以前と同じように瞬に接する氷河の苦しさは並大抵のものではなかった。
瞬が氷河の前でそのことに言及することはなかったし、瞬に無体を働いたことになっている男を責めることも、瞬はしなかった。
泣きもしなければ怒りも見せず、瞬は以前と変わらぬ笑顔と眼差しを氷河に向けてくる。
瞬の態度や様子に変化の見られないことが逆に、氷河の中の瞬への痛ましさをいや増しにした。

そんな氷河の表情を窺うように見あげて、瞬が、
「クロちゃんに何か言われた?」
と氷河に尋ねてきたのは、氷河がクロの共犯者になることを決めた日から2日が経った放課後のこと。

瞬の部屋の定められた場所に腰をおろし 無理に平静を装っていた氷河には、瞬の問いかけの意味するところが、咄嗟にはわからなかったのである。
瞬の笑顔には幾分困惑の色は混じっていたが、それは、いつも通りの――氷河が見知っている通りの――翳りや迷いのない純白の笑顔だった。






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