to love or not to love

- I -







その昔。
すべての神が招かれたテティスとペレウスの結婚を祝う宴席に、ただ一人だけ招かれなかった争いの女神エリスは、その侮辱に怒り、祝いの席に騒乱の種を撒いた。
彼女は、「最も美しい女神へ」と告げて、並み居る神々の前に黄金の林檎を投げ入れたのである。
この林檎を巡って、神々の女王ヘラ、知恵と戦いの女神アテナ、愛と美の女神アフロディーテが、争いを始めた。

大神ゼウスは、トロイアの王子パリスに その判定を委ね、女神たちはそれぞれに、パリスが自分に黄金の林檎を与えた時、彼が得られるであろう報いを彼に示したのだった。
ヘラは『アジアの君主の座』を、アテナは『戦いにおける勝利』を、アフロディーテは『世界一の美女』を。

パリスが選んだのは、世界一の美女ヘレネだった。
既にメネラオスに嫁していたヘレネをパリスは奪い、そのために、パリスの故国トロイアとギリシャの国々との間で戦が始まる。
その戦いの中で、パリスは自らの命を失い、また彼の家族であるトロイアの王家を破滅させてしまったのだった。


「愚かなことだ。同じ条件を出されたら、私は迷わずヘラかアテナを選ぶ」
ある時、一人の男が、すべての神を祭る万神殿パンテオン――当然、愛と美の女神も祭られている――で、そう放言した。
その男こそが、極北の国ヒュペルボレオイの王家の始祖だと言われている。
その時にはまだ、名もない小国の領主にすぎなかった彼は、その大胆な発言以来、ヘラとアテナの絶大な加護と援助を受けることになったのである。

戦いでの常勝、恋の情熱にすべてを賭けたパリスとは正反対の冷静な判断力と、君主としての気概。
それらのものを己が身に備えた彼は、北方の国々を次々に平らげ、ついには広大なヒュペルボレオイの国の王となった。
勝利と権力と栄光。
パリスが選ばなかったものを選ぶことによって、彼は地上における最高の力と栄誉を手に入れたのである。

ところが、彼の成功を快く思わなかった神がひとりいた。
言わずと知れた、愛と美の女神その人である。
「ヒュペルボレオイの王が、それほど愛を軽んじるというのなら、北の国の王と その血を受け継ぐ者たちは、永遠にそれを手に入れることができないようになるがいい。ヒュペルボレオイ王家の者は、これ以降、その最後の一人の命がこの地上から消え去る時まで、決して愛を手に入れることはないだろう。彼は恋をすると死ぬのだ」

愛と美の女神アフロディーテの不吉な呪いにも関わらず、ヒュペルボレオイの王家は繁栄を続けた。
ヘラとアテナの祝福によって、代々の王家の者たちに受け継がれていく勝利と叡智。
それらのものが、決して彼等に失政を招かせず、また戦に負けることもないのであるから、北の国の繁栄は当然のことだったろう。
燃えるような恋の情熱に我が身を委ねることを知らないヒュペルボレオイの王家の者たちが幸福であるのかどうかは――彼等の胸の内は――誰にも窺い知ることはできなかったが。






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