「だから言ったでしょう。どんな朴念仁も恋の力の前には無力。地位も勝利も、その輝きを失う。恋を選んだパリスは賢明だった。彼は、彼に示された3つの力のうちで最も強い力を選びとったのだから。あの若者は、私を選んだところまでは賢明だったのよ……」
それがアフロディーテの声だということは わかった。

「それにしても、あの青年はヒュペルボレオイの王家の者たちの中で誰よりも恋を厭うていた者だったのに」
「私は家庭と婚姻を守護する女神でもあるのですよ。その私に、あの二人を祝福しろと言うのですか、あなたは」
恋に命を懸けた二人を見詰めている者は、アフロディーテ一人ではないようだった。
他に、アフロディーテのものではない女性の声が2つ。
あまり機嫌がよくないらしい二人をなだめるように、アフロディーテの声が告げる。

「硬いことはおっしゃらないで。昔のいさかいのことは忘れてくださいな。愛と美の女神が最も美しい女神でなかったら、私の――いいえ、神々の立場というものがないでしょう。私は、自分のためというより、神々の名誉のために、お二人と争ったのですわ」
彼女等のやりとりから察するに、アフロディーテのものでない声は、どうやら神々の女王ヘラと知恵と戦いの女神アテナのものであるらしい。

偉大な女神たちの会話を、ぼんやりと聞きながら、ヒョウガは自分は今どこにいるのだろうと訝っていた。
突然エティオピアの浜の海面が盛りあがり、その巨大な波にシュンと共に飲み込まれたところまでは記憶がある。
彼の身体は今、まるで やわらかく温かい氷の中に閉じ込められてでもいるかのように自由がきかず、瞼を開けることさえできなかった。
ただ、自分の腕がしっかりとシュンを抱きしめていることだけはわかる。
自分が置かれている現状がまるでわからないというのに、ヒョウガは、自らの腕と胸とで確認できるシュンの存在に安心感を覚えていた。
シュンと共にいられるのなら、場所はどこでもいいのだ。
たとえここが死の国の王の支配する場所でも、ヒョウガは構わなかった。

「お二人には、恋の力の抗し難く偉大なことは おわかりいただけたでしょうから、私はこれで満足ですわ。北の国の王家にかけられた呪いを解きましょう」
「そうしていただけると有難いわ。エリスの姦計に乗せられたことを、私たちはずっと後悔していたの。最初から、私たちが対立し合う必要はなかったのよ」
それが、偉大な女神たちの至った結論らしい。
女神たちの話し合いが終わるのを待っていたらしい男の声が、そこに割り込んでくる。

「美しい女神様方。それで私は あの二人をいつまで海の泡の中に閉じ込めておけばよいのだ」
「もう浜に帰してやってもいいと思うわ。でも、ポセイドン、あなたはシュンが欲しかったのではないの?」
「私がシュンを求めたのは、ゼウスとハーデスへのただの対抗心だ。他の男に恋焦がれている者など、どれほど美しくても側に置きたいなどとは思わん」

不機嫌そうな声の主は、エティオピアの国とシュンの身に災難を降りかけた海神ポセイドンのものであるらしい。
しかし、彼の声は、その言葉の内容とは裏腹に、本心から立腹しているようには聞こえなかった。
おそらく、エティオピアの国難とシュンへの神託自体が、海神と女神たちによって仕組まれたことだったに違いない。

「さすがは7つの海を支配する偉大な神。素晴らしく寛大かつ賢明な判断だわ」
ポセイドンを大仰な言葉で持ち上げたのはアテナだった。
それに対するポセイドンからの答えはなかったが、彼はアテナの見え透いた世辞に苦笑しているに違いない――とヒョウガは思った。

「パリスのてつを踏まないように、お二方は、既に恋に落ちた者たちにこそ、分別という贈り物をしてやった方がいいわ」
「その方がよいようね。ヒョウガには特に。思わぬ情熱家のようだから」
「では、ただ今より、ヒュペルボレオイ王家にかけられた呪いは解消されたものとします」
女神たちの声は、そこで途絶えた――ヒョウガには聞こえなくなった。


気が付くと、ヒョウガは、彼が大波に呑まれた岩場からほど近い浜に打ち上げられていた。
シュンをその胸にしっかりと抱きしめたままで。
既に漁師が二人を発見して王宮に連絡がいっていたらしく、彼等はまもなくエティオピアの兵たちによって王の居城へと運ばれたのである。
二人共、しばらくは身体を動かすことができなかったのだが、その不自由はまもなく嘘のように解消した。

その翌日、シュンの兄であるエティオピア王が王城に帰還し、彼は王の不在の間に為された大事の経緯を聞かされて、今更ながらの混乱と驚愕に見舞われることになった。
王の許しも得ずに勝手に王家の者を生け贄にしようとしたヒョウガの非礼に、彼は相当の怒りを覚えたようだったが、シュンの涙ながらの懇願と、とにもかくにもシュンが生きているという事実によって、彼はその怒りをやわらげることになった。
――というより、王の帰城と前後して もたらされた、国内の果樹がいっせいに実を結び始めたという報告に、彼は、シュンの兄としてはともかくエティオピアの王として、怒りを収めないわけにはいかなくなってしまったのである。

ヒョウガは、故国に事の顛末を知らせる使者を出して、彼自身はエティオピアの国にとどまった。
昼となく夜となくシュンを抱きしめ、熱烈に恋する者と共に時を過ごすことのできる幸福に、彼は今 酔いしれている。
アテナとヘラは、彼に“分別”を送り込む時期を計りかねているようだった。






Fin.






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