SOUL LOVE






城戸邸の正面玄関の車寄せに、いかにも場にそぐわない白い色の大衆車が滑り込んでくる。
グラード財団総帥の私邸の門を そんな車が通り抜けたのは、もしかしたらこの屋敷の建造以来初めてのことだったかもしれない。
その車から瞬が姿を現す様を、氷河はエントランスホールの壁に埋め込まれたモニター画面で睨んでいた。

「今日はご馳走さまでした。送ってくださって ありがとうございます」
車を降りた瞬は、運転席の男に頭をさげている。
その男は、自分が車を降りて瞬のためにドアを開けてやるほどの気遣いもできない男らしい。

「いや、僕の方こそ本当に助かった」
来客用の監視装置のマイクが拾ってくる男の声は まだ若く、いかにも軽々しい。
親に買ってもらった車か、家族共用の車を乗り回している大学生――というところだった。
無論、氷河の知らない男である。
「じゃ、また・・
その男はまるで瞬と次の約束を取りつけているような気軽な挨拶を残し、邸内に入ってきた時同様、車をゆっくり走らせることを知らない、いかにも素人の運転で、モニター画面から消えていった。

動くものが映らなくなったモニター画面の下部に表示されている時刻は、23:05。
『ちょっと散歩に出てくる』と言って家を出ていった人間が帰宅するには、遅すぎる時刻である。
軽快な足取りでエントランスホールに入ってきた瞬を、氷河はホールのまばゆい光の中で、でき得る限りの無表情を装って出迎えた。

「ただいま」
「おそかったな。メシは」
「済ませてきた」
「どこで」
「えーと、あれは六本木になるのかな。ホテルのホールを借りた小さなパーティがあって、今 送ってきてくれた人が、僕を招待してくれたの」
「何者だ」
ぶっきらぼうに要点だけを聞いてくる氷河に、瞬は、自分の遅い帰宅が氷河を不機嫌にしていることに、遅ればせながら気付いたらしい。
彼は、気の立っている氷河を落ち着かせようとして、意識して柔和な笑みを作った。

「この近所に住んでる学生さん。タナカさんって言ってた。今日、公園の横の遊歩道を歩いてたら、声をかけてきたんだ」
瞬が見知らぬ男に声を掛けられるという事態は、珍しくもないことである。
だが、だから不愉快でないかといえば、そんなことはない。
そして、氷河は自分の不愉快を隠す術にあまり長けてはいなかった。

「ゼミの担当教授が学部長になったんだって。それで、教え子たちが主催して お祝いのパーティを開くことになったんだけど、一緒に行くはずだった彼女が風邪をひいちゃって――。お友達に、彼女を同伴するって宣言してたのに、もし連れていかなかったら、彼女がいないのにいるって見えを張ったと思われるかもしれないでしょ。だから身代わりを務めてくれる人を探してたんだって」
「嘘くさい」
氷河の実に端的な一言が聞こえなかった振りをして、瞬は懸命に氷河に笑顔を向け続けた。

「沙織さんが行くようなパーティとは全然違ってて、面白かったよ。新しい学部長さんはギリシャ哲学の先生だとかで、色んな話を聞けたし。出席してる人たちも、フォーマルな格好をした人からデニム着てるような人までごちゃごちゃで、僕、散歩に出た時に着ていた普段着のままで会場に入ったのに、全然浮かなかった」
浮いてはいなくても、目立ってはいただろう。
瞬は、不細工でなければなれる今時のグラビアアイドルなどとは次元が違う 清楚な面立ちをしているのだ。
一般人の集まる場所で、無駄な動きの全くない瞬の所作は、それだけでも人の目を引く。
氷河は、瞬が烏合の衆の視線にさらされている状態を脳裏に思い描いただけで、気分が悪くなった。
とりあえず、事情がすべて飲み込めたところで初めて、瞬の軽率を責め、怒りを露わにする。

「おまえは、なんでそんな奴にほいほいついていくんだ!」
「困ってるみたいだったから」
「何か魂胆のある奴だったらどうする!」
「魂胆って……出席者が5、60人くらいのささやかな立食パーティだったよ。学生の他にお歳のいった先生方もいたし。それに、魂胆なんて、もしタナカさんにそんなものがあったとしても、普通の人が僕に何ができるっていうの」
「……」
それが瞬の切り札だった。
アテナの聖闘士である自分に危害を加えられる一般人などいない。
だから自分は誰といても、どこに行っても大丈夫――と、瞬は言うのだ。

「それに僕はこういうことでは都合がいい人間でしょ。万一タナカさんが彼女に変に勘繰られたり、焼きもち焼かれたりしても、『あれは男だった』って言えば、冗談で済む。僕に声をかけてくるのって、みんな男の人だし、みんな冗談好きな人たちばっかりなんだよ」
「冗談?」
氷河は、そんな言葉を冗談めかさずに言ってしまえる瞬こそが、最も冗談じみた人間だと思った。

瞬に声をかけてくる無礼な男たちは、10人中9人までが 瞬を少女だと思い込んでいる。
瞬はその事実に気付いていないのか、あるいは、気付いているのに あえて認めようとしないだけなのか、いずれにしても そういう輩に自分が男だということを主張することをしない。
瞬は、見知らぬ男に声を掛けられることよりも、そういう者たちに自分は男だと知らせて『嘘だろう』と言われることの方を 不愉快だと思っている節があった。

無論、瞬に声を掛けてくる者たちの10人の中に1人くらいは、瞬を男子と見破った上で声を掛けてくる者もあった。
危険というのなら、他の9人よりも その慧眼な1人の方が はるかに危険なのだが、そういう場合でも、瞬の対応は他の9人に対するものと変わらない。
そして、氷河も、他の9人に対するものと同様の憤りを、その危険人物に覚えるのだった。

「帰りが遅くなったのはごめんなさい。でも、人助けのためだったんだから、怒らないで」
瞬の謝罪に、氷河は一言の答えも返さず 無言で踵を返した。
瞬が、そのあとをついてくる。
氷河を追って、瞬は氷河の部屋にまでやってきた。

瞬が嘘をついていないことはわかっている。
もし瞬の説明が事実と違っていたとしたら、その時には瞬も 悪意のある第三者に騙されているだけなのだ。

「氷河、機嫌直して。ごめんなさい。これから遅くなる時にはちゃんと連絡入れるから」
瞬にそんなことをする義務はないし、今 瞬に謝られている男には、瞬にそれを求める権利を有していない。
自分には瞬を縛る権利はない。
氷河もそれはわかっていた。
わかっていたから、氷河は、瞬を抱きしめることで、自身の苛立ちを静めようと努めるしかなかったのである。






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