就職活動中の学生と共に彼の大学に赴くことは、瞬は本当は不本意だった。
不本意だったのだが、事態がこうなってしまった以上、自分が彼と一緒に行かなければ、自分以外のすべての人間が一度立てた予定を狂わされ、その上、不運な人間を1人増やすだけだと考えて、瞬は彼に同道した。
それでも、瞬は本当は行きたくなかったのである――というより、瞬は氷河から目を離すことが不安だったのだ。

そんな瞬の気持ちなど知るよしもない学部長は、白髪の見え始めた頭を振りながら、上機嫌で瞬を学部長室に迎え入れてくれた。
そして、彼が関心を抱いていることの解明に取りかかる。
ひとしきり瞬と他愛のないことをギリシャ語で語り合ったあと、彼は、瞬が話すギリシャ語はやはり 2、300年前のものだと告げた。
文献で学ぶことのできる古いギリシャ語でもなく、現代語でもない。
いったいどこでそれを習得したのだと問われた瞬は、ギリシャの都市部から離れた ある地方でそれを学んだのだと適当なことを言って、彼の質問をやり過ごしたのである。

瞬は他にも、英語や氷河に教えてもらったロシア語やフランス語、アムハラ語やソマリ語等、瞬が知っている限りの言葉を話すことを求められた。
哲学科の教授は、無論、それらの言葉すべてに通じていたわけではなかったようだったが、だからこそ彼は、瞬がそれらの言語を操ることに驚嘆したらしい。
瞬たちの横で何が何やらわかっていないような顔をしている自分の教え子に、彼は、
「君もこれだけの言語を駆使できれば、就職口はいくらでもあるんだがね」
と、聞きようによってはきつい台詞を無邪気に笑って告げたのだった。


夕食をご馳走したいという学部長の誘いを丁寧に辞して、瞬が城戸邸に戻ったのは夕方の6時。
氷河が帰ってきたのは、それから5時間後の11時過ぎだった。
待つ者と待たせる者の立場が逆になった他は、昨夜とほぼ同じシチュエーションである。
昨夜と違うのは、氷河を乗せてきた車が昨日の男子学生の車より かなりランクが上だったこと、運転しているのが若い女性だということ、そして、帰宅の遅れた者を待っていた人間を支配している感情が、憤りではなく不安めいたものだったということだけだった。

「氷河、あの……」
遅い帰宅を果たした氷河は、今更事情を説明する必要も報告の義務も感じていないらしく、エントランスで彼を出迎えた瞬に、うんざりした様子で、
「本当に集団デートになるとは思わなかった」
とぼやいただけだった。

「あ……。氷河、誰かと二人きりじゃなかったの?」
氷河が自分の知らない女生と二人きりでいる場面ばかりを想定して あれこれ考えを巡らせていた瞬は、彼のその言葉にほっと安堵の息を洩らした。
そんな瞬に、氷河がちらりと一瞥をくれる。
「今夜はおまえの相手はできないぞ」
「え?」
「どんなに頑張っても、もう一滴も出ない」
「……」

氷河はいったい集団で何をしてきたのか――。
悪びれた様子も見せずに そんなことを言い、自室に戻るために階段を昇り始めた氷河の後ろ姿を呆然と見やりながら、瞬は必死に、氷河の言葉を質の悪いジョークだと思おうとしたのである。






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