「あがり症を治せばいいじゃないですか。色々あるでしょう。心理療法とかカウンセリングとか」
顔だけの男と決めつけられても氷河は困らないだろうが、著名なオペラ歌手が客の前で歌を歌えないという現実は大きな問題をはらんでいる。
紫龍は仲間の名誉回復のために尽力するつもりはないらしく、さっさと話題を白鳥氏のあがり症問題に戻してしまった。

「そうなってしまった原因を突きとめたくて、本人もあちこちの心療内科に通って治療を試みたらしいんだけど、彼自身、自分がそんなふうになってしまった原因に全く心当たりがないそうなの。まあ、心的抑圧が忘れさせているということもありえるのだけど。彼は、原因さえわかれば、あがり症を治すためのどんな努力も厭わないと言っているのよ。でも、原因がわからないのじゃあね……」

「お気の毒に……」
沙織の言葉で、白鳥氏の苦衷と 何より現状打破のために彼が懸命の努力をしていることを知った瞬は、白鳥氏にいたく同情することになったようだった。
横で不機嫌そうにしている氷河を綺麗に無視して、瞬は、白鳥氏のために痛ましげな表情を作った。
「でも……オペラ歌手が舞台に立つのって、そんなに大事なことなんですか? 僕は、このCDを聞いてるだけでも、とても感動したけど……」

オペラ歌手がオペラの舞台に立てないということは、確かに本末転倒と言っていいような事態だろう。
だが、彼が彼のあがり症を克服して舞台に立つことができるようになったとしても、劇場に赴いて彼の歌を聞くことのできる人間の数は限られている。
しかも、それは、言ってみれば、その時だけのもの。幕が閉じれば、消えてしまうものなのだ。
それくらいならば むしろ、CD等での活動に力を注いだ方が、より多くの人間に彼の歌を聞いてもらうことができ、グラード財団が得る収益も多いのではないかと、瞬は考えたのである。
実際、彼のファーストアルバムは、来週にもミリオンセラーになろうとしているのだ。

沙織は、しかし、瞬とは違う考えを持っているらしい。
彼女は首を横に振った。
「オペラのアリアやハイライト集は、映画のスポットCMのようなものよ。CMの出来がよくても、それで映画の評価が決まるわけじゃないでしょう。今時、声や画像はいくらでも作ることができるというのは事実だし、このCDに収録されている声が人工的に作ったものなのではないかと思われても、それは不思議なことじゃない。だからこそ、彼が大衆の前で歌ってみせることが大事なの。人はそれが人間が歌う歌だからこそ感動するのよ。そうでなかったら――彼が生身の人間であることを人々に知らせることができなかったら、大衆は早晩、彼の歌を聞く価値のないものと判断し、誰も彼の声に振り向かなくなるでしょうね」

「それは……」
それは確かに沙織の言う通りである。
現代の技術をもってすれば、人工的に“完璧”を作り出すことも可能だろう。
だが、人はそんなものに心を動かされない。
人は、不完全な存在である人間が“完璧”に近付こうと努力する、その姿にこそ感動するのだ。

「ならテレビにでも出て歌を歌ってみせりゃいいじゃん。それで、このにーちゃんが実在の人物で、声も作られたもんじゃないって、みんなに認めさせることができるだろ」
星矢が告げた、ある意味 実に妥当な現状打開案は、
「オペラ歌手のデビューがオペラの舞台じゃなくテレビだなんて!」
という沙織の一言で、言下に却下された。

そして、
「抗不安剤等の薬に頼ってみるのはどうです。スポーツ競技と違って、歌手が薬を飲用するのはドーピングにはならないんでしょう?」
「声というものはとてもデリケートで、体調に大きく左右されるものなのよ。薬の副作用のことを考えると、とてもその対処方法は採用できないわ」
紫龍の提案も同様である。

「ほんと、氷河の図太さが彼にあったなら、どんなにいいか――。いっそ二人の精神が入れ替わってくれればいいのに」
八方塞がりの状態に陥った沙織は、最後には彼女らしくなく、実に投げやりなことを言い出した。
「図太い人間とそうでない人間とでは、脳の作りや脳波が違うのかしらね。調べてみようかしら」

あがり症――いわゆる社会不安障害――は、どう考えても後天的な病気である。
脳波はともかく、あがる人間とそうでない人間で脳の作りが違うはずがない。
「ロシアのレーニン廟には永久保存措置が施されたレーニンの脳があるらしいが、ロシア革命の父の脳も普通のおっさんの脳と大差ないものだったという話だぞ。それどころか、レーニンの脳は脳硬化症で相当悲惨な状態だったとか」
嫌味なほどに繰り返し“図太さ”を褒められ続けることに、図太い氷河もさすがに相当気分を害したらしい。
だが、図太い男は、その図太さゆえに、傷心や憤りを本気で他人に気遣ってもらうことができないようにできているのだ。

ところで、女神アテナこと城戸沙織は、奇抜な発想の持ち主だった。
その上、グラード財団総帥である彼女は、自らのふとした思いつきを実行に移してしまえる力を有していた。
氷河の皮肉めいた薀蓄をあっさり無視して――無論 彼の意向も確かめずに、彼女はその場で、白鳥氏と氷河の脳波及び脳のMRI検査の準備をするよう、電話で部下に指示を出してしまったのである。
もちろん氷河は、即座に そんな無意味なことに時間を割くのは嫌だと主張した。――したのだが。

「氷河、協力してあげようよ。白鳥さんは困ってるんだし、もし氷河の協力が功を奏して彼が舞台に立てるようになったら、チケットを分けてもらうの。二人で正装してオペラハウスデートしよ」
「む……」
瞬は、なにしろ氷河の扱いに慣れている。
“扱われて”いることに気付いているのかいないのか、氷河は瞬のその一言で、ころりと自分の主張を撤回した。
ブラックタイを身に着けた自分の姿を瞬に見せて、瞬に惚れ直されるのもいいかと、実に安易な考えを抱くに至った彼は、結局 沙織の戯れ事に付き合うことにしたのである。

沙織がお膳立てした氷河と白鳥氏の脳波及び脳のMRI検査の日、日本国では北は北海道から南は沖縄まで 冬の嵐が吹き荒れていた。
まるで、この日起こる大事件を全国民に知らせようとするかのように。






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