アテナの小宇宙は、もともと 戦いのためにあるものではないのだろう。 いつもは彼女の愛する者たちを温かく優しく包むようだった彼女の小宇宙が、逆巻く激情のように燃え上がった次の瞬間、氷河の右の拳は既に瞬の血に濡れてはいなかった。 彼女の聖闘士の悲劇を受け入れまいとする女神の心が 時間を遡らせでもしたかのように、瞬の身体は本来の生気と力とを取り戻していた。 その奇跡の意味を考える間もなく、瞬たちは、やがてその場に揃った仲間たちとハーデスの企みを打ち砕くための次の行動に移ったのである。 とはいえ、“氷河”の拳が“瞬”の心臓を貫いた時に、氷河と瞬の闘いは既に終わっていたので、エリシオンでの闘いは彼等ふたりには余禄のようなものでしかなかった。 主の消えたエリシオンに花びらが舞っている。 「おまえが嘘つきなのは知っていたんだ。なのに、なぜ俺は――」 死者たちの国に、生きて存在しているものは、アテナと彼女の聖闘士と咲き乱れる花々のみ。 その美しい光景に虚しいほどの矛盾を覚えて、氷河は呟いた。 「これから おまえを抱いて、おまえの鼓動に触れるたびに、俺は、おまえの嘘を信じた自分の甘さを悔やむことになる。萎えそうだ」 「氷河が? まさか」 一度は死の世界になりかけた地上には光が戻りつつある。 この矛盾した世界から 光あふれる世界に戻ったあとのことを心配することで、氷河は、アテナの聖闘士たちの戦いが終わったことを、自らに言い聞かせようとした。 戦いは終わり、地上の安寧は守られたというのに、なぜか心が晴れない。 「おまえは俺の甘さを利用したんだ。おまえは冷酷で、おまえを失ったあとの俺のつらさなんて考えもしない」 「うん、ごめんね」 それが、ジュデッカで 冷静極まりない態度で自分の命を消し去ろうとした者と同じ人間だとは信じ難いほどに、瞬は両の肩を落とし、しおらしく氷河の前で項垂れている。 「謝ることはない。俺は、おまえがそういう人間だと知っていて、だから惚れた。俺はただ――おまえの強さが悲しいだけだ」 そして氷河は不安だったのだ。 これからもアテナの聖闘士たちの戦いが続き、アンドロメダ座の聖闘士が そういう戦い方を続けるのだとしたら、白鳥座の聖闘士は この先一瞬たりとも心安らぐ時間を持つことはできないだろう――と。 「僕は強くなんかないよ。ああするしかなかっただけ。だって兄さんも氷河も甘すぎ――優しすぎるんだもの」 瞬は慌てて言葉を選び直したのだが、それは少々 遅きに失した。 「全くだ」 氷河は、瞬の言葉に頷かないわけにはいかなかった。 だが――。 「強くなるということが、おまえを殺せる人間になることだというのなら、俺も一輝も 一生強い人間になることはできないだろう。俺たちは、おまえとは違う」 「……」 女神アテナは、おそらく氷河の――人間の――そういう部分を愛しているのだろう。 自分には“人間らしさ”というものが欠けているのかもしれないと、瞬は思った。 ハーデスはもしかしたら、“瞬”という人間の、そんなふうに“人間らしさ”を欠いた部分を『清らか』と表したのではなかったのか――と。 だとしたら、もしそうだったのだとしたら、瞬はそんな自分にはアテナの聖闘士であり続ける資格がないような気がしてならなかったのである。 アテナという女神は、人間の人間らしい弱さと情愛を何よりも愛しむ女神なのだ。 「つまらないことを思い悩むのはやめなさい。あなただって、もしハーデスに身体を乗っ取られたのが氷河だったなら、彼を殺せなかったでしょう」 そこに、彼等の女神の声が降ってくる。 彼女は、実に雄々しく――ハーデス本体との闘いで深手を負った星矢の身体を、その肩で支えていた。 二人の後方で、紫龍が、たくましすぎるアテナの姿に眉根を寄せている。 一輝は、女神の力を借りて元の世界に戻るつもりはないらしく、例によっていつのまにか この矛盾した花園から姿を消してしまっていた。 「僕は――」 アテナの言葉に反駁しようとして、だが、瞬はそうすることができなかった。 そんな事態が生じた時、確かに氷河の命を奪うことができないだろう自分自身を、瞬には確信できたから。 「いいのよ、それで。そんなあなたたちを守るために、私がいるのだから」 人と人が、それぞれの強さと弱さを 互いに補い合って生きているように、神や自然は、人間同士では補い合えない弱さを支えるために存在するものなのかもしれない。 人も、花も、神でさえも、個々の存在は頼りなく弱いものなのかもしれない。 だが少なくとも人は、一人では生きていくことすら ままならない非力な自分たちが、どうすれば強い存在になることができるのかを 知っている。 愛する者と支え合うことで、人はその奇跡を実現できるということを、彼等は知っているのだ。 「さあ、私たちの世界に帰りましょう。星矢は空腹でいる限り、完全復活できないようだから」 花の中で、人間よりも人間らしい女神が微笑む。 一つの戦いの終わりとしては、申し分なく美しいラストシーンだった。 Fin.
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