目覚めた時、瞬は花園の中にいた。
どこかで見たような光景――だと思う。
太陽の光ではない光をたたえて明るい空と、舞い散っても舞い散っても尽きることのない花びら。
そこは、冥界のエリシオン――に酷似していた。

では、この花園のどこかに敵が潜んでいるのかと、瞬は身構えたのだが、花と花を揺らす風の他に、そこに動くものは存在しなかった。
その事実を確かめ、ゆっくりと少しずつ緊張感を解いた瞬は、その時になってふと、自分の意識の中にある『敵』とは何なのだろう? と訝ることになったのである。

エリシオンと言えば、ギリシャ神話に出てくる、神々に愛された英雄や高潔な人生を送った者たちだけが 死後に住まうことを許された無憂の楽園である。
だが、瞬には、自分が死んだ記憶がなかったし、それ以前に自分が生きていたという記憶も あまり明瞭ではなかった。
瞬の記憶は花霞の向こうにぼんやりと浮かぶ風景のように不確かで、無理にその風景を見詰めようとすると頭痛がした。

「ここは……」
そこには誰もいなかった。
もちろん、瞬に危害を加えようとする『敵』もいない。
我が身の安全が確信できるのに、そして、瞬を取り囲むものは ただ美しいものばかりだというのに、瞬はひどく不安だった。

母親の胎内を離れ外界に生まれ出たばかりの赤ん坊が、こんな気持ちを味わうのではないかと思う。
世界は美しく希望に満ちているように思えるのに、その希望が何なのか、自分は何のために この世界に存在することになったのかが、全くわからないのだ。
赤ん坊なら、その指針を母親に示してもらうのだろうが、そんな愛情は自分には望めないということだけは、瞬にもわかっていた。
そもそも瞬の身体は赤ん坊のそれではない。

「氷河……どこ?」
だから瞬は、母を呼ぶ代わりに その名を口にした。
呼んだ名の持ち主がいったい誰なのかということすら、はっきりとは思い出せないのだが、瞬は誰かを呼ばずにはいられなかったのだ。
その声が、自分でも驚くほど心細げで、瞬は、自分の声のせいで更に不安を募らせることになった。

「ここだ」
自分の他には誰もいないと見えた場所に、ふいに一人の人間の姿が現われる。
金色の髪と青い瞳を持った その青年はきっと、自分には明瞭に見ることのできない向こう側の世界から、花霞を通り抜けて こちらの世界にやってきたのだと、瞬は思った。
喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見える彼の眼差しの意味はわからなかったのだが、瞬は彼の姿と声を知っていた。
生まれたばかりの赤ん坊が母親を求めるようにすがりついていっても、彼は自分を咎めないだろう――ということも。

「氷河……!」
だから、瞬はそうしたのである。
彼は、彼にしがみついていった瞬の身体を抱きとめてくれた。
彼の表情は到底親しみやすいとは言い難いものだったが、その体温は確かに“瞬”を包むためにあるものだと、彼の胸は瞬に信じさせてくれた。
この花園にやってきて初めて、瞬は、安堵感を覚えることができた。






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