気がつくと、瞬は花霞の消えた世界にいた。 「ここは……」 四方の壁が乳白色の石でできている、初めて見るのに見慣れたように感じる場所。 石の寝台の上で身体を起こし、足を床につける。 瞬の足許に花は咲いておらず、そこには やはり石の床があった。 植物の密生した場所特有の 息苦しいほどに濃密な空気もここにはなく、瞬の肺は体内に酸素を取り入れるための活発な活動に勤しんでいる。 「アテナ神殿の奥の部屋だ。エリシオンから戻ってきた」 場所がどこでも、氷河が側にいてくれるなら、瞬はすぐに希望を見付け出すことができた。 ここがどこなのかがわかったからではなく、自分の呟きにすぐに氷河の答えが返ってきたことで、瞬の緊張は 安堵の思いに打ち消された。 「エリシオン……」 では、あれは本当にエリシオン――死者の楽園だったのだ。 「ハーデスとの戦いは、やはり星矢よりおまえの心の方に大きな傷を残したようだったから――。沙織さんに相談したら、彼女がこの計画を持ち出してきたんだ。おまえの望む争いのない平和な世界を作って、おまえがそれを望むなら、永遠にそこに住まわせてやろう――とな。もっとも沙織さんは、おまえが仲間たちの元に戻ってくることを確信していたようだったが」 「うん」 ハーデスの遺産を、沙織はちゃっかり彼女の聖闘士の福利厚生施設として再利用していたらしい。 女神アテナであると共に合理的な経営者でもあるらしい沙織のやり様に、瞬は苦笑した。 否、彼女がこの結末を予想していたというのなら、あの花園は厚生施設ではなく、正しく“更生”施設――人が生まれ変わるための場所――だったのだ。 美しく穏やかで恐ろしい場所。 もしあの世界にたった一人で投げ出されていたとしたら、自分はあの平和なだけの世界の有り様に耐えるために徐々に狂っていたに違いないと、瞬は思った。 人は、与えられた世界をそのまま受け入れる花ではいられない。 瞬は、無心に咲き無心に散る花ではなく人間だった。 幸福になりたいと、生きていたいと、声を限りに叫ぶ人間。 そんな人間には、そんな人間にふさわしい楽園がある。 その楽園に、瞬は戻ってきていた。 数千年前に、生活のためにではなく祈りの場として建てられたアテナ神殿は、採光のための工夫があまり為されていない。 それでも そこには、どこからか光が忍び込んできていた。 その光は、太陽のないエリシオンを取り囲んでいた光とは質が違っている。 「あそこにあった光は、まがいものの光だったのかな」 「生きている光ではなかったな」 この世界では、世界に光と熱を供給する太陽でさえ、絶対のものではない。 それは いつ死んでしまうかもわからないものであり、50億年後には確実に矮星となって死んでいくものである。 だが、だからこそ この世界では、光でさえ生きていた。 その光の中で、暫時ためらってから、瞬は氷河に告げた。 「僕は……不安に耐えかねて氷河にすがっていたんじゃなかったみたい。そんなとこが全然なかったとは言わないけど……。僕は氷河と一緒に歩きたかったから――氷河は、僕の夢と理想に向かって一緒に歩いていってくれる人だと思っていたから、それなのに氷河に支えてもらってばかりいる自分が、僕は不安だったんだ。僕も氷河を支えてあげたかったのに、それができていないような気がして、僕は氷河に甘えてばかりいるような気がして――」 「俺はいつもおまえに支えられていたが。でなかったら、俺はとっくの昔に死んでいた」 瞬は何を言っているのかと、氷河は本気で、瞬の抱えていた不安に驚いたようだった。 それは馬鹿げた考えだと、即座に否定する。 「おまえは俺に寄りかかっていたわけじゃない。そんなこともあったかもしれないが、それは 『俺はそういう“瞬”が好きなのだ』と、氷河の瞳が告げている。 瞬は少々の気恥ずかしさと共に微笑み、彼に頷き返した。 「それが、人が『生きる』ってことだよね」 瞬の言葉に、氷河のまた微笑を返してくる。 「外に出るか? 俺たちが生きていく世界を見ることができるぞ」 氷河に差し延べられた手に自分の手を重ね、瞬は石の床に立ち上がった。 ドーリア式の大理石の柱に支えられた建物の向こうに、この世界の光源がある。 アテナ神殿の足下には、教皇のための建物と12の宮が点在していた。 女神アテナの御座所とはいえ、要するに、ここは戦場の跡である。 戦いがあったことを忘れまいとするアテナの意思なのだろう。必要最小限の修復しか施されていない聖域には、崩れ落ちたままの大理石の柱があちこちに散らばっていた。 優美とは言い難い光景。 そこに降り注ぐ、生きている光。 浅い春を迎えた聖域の上に広がる空は明るく、そして青く澄みきっていた。 日本よりも乾燥した土地柄のギリシャには、もともと花は少ない。 まして、聖域は戦いばかりを経験してきた場所である。 そこには、無憂の園のように花々は咲き乱れていなかった。 そんな場所で、だが瞬は、何よりも美しく健気なものを見付けたのである。 岩と岩の間に、僅かな土と水と光を糧にして咲こうとしている小さな野の花の姿があった。 Fin.
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