「本当に、困ったな……」
ヘレネスの国には春が訪れようとしていた。
雪は消え、日一日と空気は暖かく変化している。
しかし、空は冬の夜のそれのように冴え渡り、そこでは 不吉なほど美しい星が輝いていた。
庭に出て、星に向けていた目を、ヒョウガの居室のある方へと向ける。
シュンが『おやすみ』を言って彼の部屋を辞してきたのは数刻前。
大理石と花崗岩で造られた城館の二階の東にある彼の部屋には、まだ煌々と明かりがともっていた。
シュンは、その様を見て、深い溜め息をつくことになったのである。

最も『困る』のは、他でもないシュン自身の中に、ヒョウガにはいつまでも今のままでいてほしいと思う気持ちが、(実は)あることだった。
ヒョウガが大胆な冒険家でないことで、誰が困るわけでもない――少なくとも今は。
ヒョウガは優しく、他人を思い遣ることができ、神が一人の人間に望む美徳を ほぼ完璧に その身に備えている。
王となる身でさえなかったら、他に望むことなど何もないほど――シュンにとってヒョウガは完全に好ましい人間だったのだ。

しかし、ヒョウガはこの国の王となることが義務づけられている。
やがては多くの民の幸福や国そのものを守るために、何かを切り捨てなければならない場面に直面することもあるだろう。
一か八かの賭けに出なければならなくなることもあるかもしれない。
その時、冷徹に、あるいは大胆に振舞うことができなければ、指導力のない王として、ヒョウガは臣下や民に軽んじられることになるかもしれないのだ。

ヒョウガの父王は、おそらくはヒョウガの自覚を促すため、そして この国の未来の国王が誰なのかを内外に示すため、形式的にではあったが、国軍の統帥権や要職以外の人事任命権を徐々にヒョウガに譲り始めていた。
王宮の敷地内にあるとはいえ独立した城館に住まわせ、ヒョウガ専任の使用人を幾人もつけ、ヒョウガだけのための資産勘定を設けたのも、未来の国王の独立心を養い、一つの家の家長としての采配振りを見るためなのだろうと、シュンは察していた。
王もいつまでも若くはない。
ヒョウガに、未来の国王にふさわしい胆力とある種の独断力を備えさせることは、まさに急務だったのだ。

周囲の人間の期待を知っているくせに、ヒョウガはまた呑気に難しい本でも読んでいるのかと、シュンは、彼の部屋の灯りに焦慮を覚えた。
ある時期までは、シュンはヒョウガと共に、一般教養や作法の教育を受け、剣術の指導も受けていた。
一国の王子の側近にふさわしいだけの教養は一通り身につけていたし、『女のような』と誰に評されようと、どんな騎士相手でも剣で互角に渡り合える自信はあった。

やがて、ヒョウガの受ける教育の内容は軍事・政治・思想等、帝王学と言える分野に及ぶことになり、シュンはヒョウガとの同席を遠慮するようになったのだが、子供の頃の腕白振りからは想像もつかないほどの勤勉で、今ではヒョウガは各分野の専門家も舌を巻くほどの論客になっていた。

シュンは、そんなヒョウガが誇らしかった。
だからこそ、学者然として穏やかで物静かな印象の強い彼を、シュンはじれったく思っていたのである。
ヒョウガは学者ではなく、王となることを望まれている。
過ぎる知性や理性や理想がヒョウガから行動力を奪うことを、シュンは危惧していた。

「ハーデス様」
もう一度、彼の部屋に行って、いい加減に休むように言うべきかと、シュンが考え始めた時、シュンの他には誰もいないはずの夜の庭に、誰かを呼ぶ声が低く響いた。






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