身体の中に氷河を感じ、それが力になる。
行為や事象に意味を持たせるものは人間の意思なのだと、氷河と身体を交えるたびに瞬は思った。
瞬の声は、氷河にこれ以上無用な気遣いをさせないようにと意識したわけでもないのに 明るく軽快なものになっていて、我ながら現金だと、瞬は自分自身に苦笑した。
「でも、心を強くするってどういうことなのかな。自分や他人が感じる痛みに無感動になるってことじゃないよね」
ほとんど筋肉だけでできている氷河の腕に両手でしがみついて、瞬は彼に尋ねた。
「身体の鍛え方ならいくらでも知ってるんだけど」

そのわりにいつまでも細いままの瞬の腕を、氷河は常々不思議に思っていたのだが、今ここで瞬を拗ねさせるわけにはいかないと考えて、氷河はあえて その件には言及しなかった。
「継時的接近法という、目的達成のための一つの手法があるんだ」
「継時的接近法?」
「大きな目的を達成しようとした時、現状から目的までの間に、幾つもの下位目標を立てて、一つ一つ手近な目標を達成してから、次の目標に向かって進んでいくやり方だ。標高1000メートルの山に登ろうと思ったら、まず100メートル地点到達を目標にするんだ。そこに辿り着いたら、次には200メートル地点到達を目標にする。さほど困難なく達成できそうな目標に向かって こつこつ努力を続けていれば、いつかは本来の高い目標に到達できる――というやり方だな」

「誰でも意識せずに実行していそうなやり方だね」
始めから はるか遠くにある目的を見上げていたのでは、そのあまりの遠大さに、人の心は目標に挑む前に挫けてしまうかもしれない。
地上の平和、人類の幸福――アテナの聖闘士たちの闘いの目的は、まさに遠大すぎる目的だった。

「おまえはまず、俺という傷付いた魂を持った哀れな男を一人、抱きしめて救ってくれた。そして、そのために少し強くなった」
氷河が、瞬の髪に唇を押しあてる。
「僕が氷河を?」
瞬はそんな大層なことをしたつもりはなかったので、自然に訝る口調になった。
むしろ、いつも こうして彼に救われているのは自分の方だと思う。
しかし、氷河は、自分の認識に過誤があるとは微塵も思っていない様子だった。

「俺を救ってくれたように――おまえなら、他の人間を救い許すことで強くなっていけるだろう。神のように一度にすべての人間を救うことはできなくても、俺たちの願いを一人ずつ少しずつ人に理解してもらい、同じ願いを抱く仲間を増やしていく。その仲間たちを助け支え助けられ支えられて、俺たちは一歩ずつ目的の地に近付いていくんだ」
「うん……」

神ならぬ身の人間には、確かにそういうやり方しかできないのかもしれない。
そして、神ならぬ身の人間には、自分がどこまで行くことができるのかもわからない。
だが、今の瞬には、『この人のために強くなりたい』と思える人がひとりいた。
彼が自分のすぐ側にいて、いつも自分を見詰めていてくれることも知っている。
他者に守られることに甘んじているだけだった幼い子供の日より、“瞬”という人間は、少なくとも一歩は目的の地に近付いているのだ。

その大切な温もりを抱きしめて、瞬は瞼を閉じた。
明日は、病院にいる あの兄弟の元を訪ね、許しと理解を求めてみようと思う。
ひどい言葉を投げつけられ、また傷付くことになるかもしれないが、ともあれ その小さな一歩を踏み出さないことには、世界は何も変わらないのだ。
瞬はもう、自分の意思では一歩も前に進むことのできない花になりたいとは思わなかった。


そうして長い時間が経ったある日、自らが歩んできた道を振り返って、小さな勇気と誠意の積み重ねが遠く長い道程となっていることに、人は驚くのだ。






Fin.






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