瞬がきょとんとした顔をしている その横で、氷河が眉を吊りあげていた。
冷めているのか燃えているのかわからない青い瞳は、シェイクスピア風に言うなら、『熱い氷、冷たい炎』といったところで、その拳は怒りにぶるぶると震えている。
この世に恐れるものなどないはずの女神アテナが、氷河の怒りを和らげるべく、無意識のうちに引きつった笑みを浮かべたのも当然のことだったろう。
彼女は知恵と戦いの女神――野蛮な狂乱と破壊の戦闘神アーレスとは異なり、名目的には理性と正義による戦いを是とする神なのである。
怒りや動物的な欲望等、感情や狂乱を動機として生まれる戦闘や攻撃は管轄外のことなのだ。

氷河のその様子を見て、逆に落ち着きを取り戻したのは紫龍だった。
それまで、どちらかといえば この困った事態を収拾する方向に向けた正論ばかりを吐いていた紫龍が、急に態度を変えて目許に皮肉の色を浮かべる。
「まあ、相手は大企業の御曹司。押し出しもいいし、馬鹿でもなさそうだ。しかも瞬一筋で8年間きたんだろう。誠実で浮気一つしない いい亭主になるのは保証できるな。無分別に敵に飛びかかっていくしか能のない どこぞの阿呆な聖闘士より、よほどしっかり瞬を守ってくれるだろう」

紫龍の皮肉に対する氷河からの反駁はなかった。
怒りのせいなのか混乱のせいなのか、彼の発声能力と言語能力は同時に麻痺してしまったらしい。
当事者である瞬の方が、氷河よりは余程落ち着いているように見えた。
――というより、瞬は、自分が見知らぬ男の妻にされようとしている現実に混乱することができなかっただけなのかもしれない。
どう考えても、それは実現不可能なことなのだ。

怒れる氷河の横につくねんとした様子で突っ立っている瞬の上に、星矢は視線を転じた。
「瞬、おまえ、あの男を憶えてるのか?」
星矢に問われたことに、瞬はぷるぷると首を横に振った。
「あの頃の沙織さん、エントランスにワックスを塗って、お客様を転ばすのを趣味にしてたんだよ。僕は、転んじゃった人を何十人も助け起こしたし、沙織さんのいたずらがばれないように、いつも はらはらしてたから、とても一人一人の顔までは――」

知恵と戦いの女神の高雅な趣味を知らされた青銅聖闘士たちの非難の視線が、沙織に集中する。
沙織は一瞬 慌てた様子を見せたが、さすがは知恵の女神、彼女は、実にもっともらしい理由を すぐに彼女の聖闘士たちに披露してみせた。
「あら、だって、あの頃ウチを訪ねてくるお客様って、みんな変に緊張して、硬くて恐い顔をしている人たちばかりだったのよね。だから私、最初にそういう失敗をすれば、体裁を気にしていられなくなって、場が和むかなぁ――って考えたの。あれは、私なりの気遣いだったのよ」

知恵の女神のもっともらしい言い訳を、もちろん青銅聖闘士たちは誰ひとり信じなかった。
瞬が、沙織に向かってきっぱりと言う。
「僕は男だと言って断ってください。それで万事解決することでしょう」
だが、沙織は、瞬の要請に快く頷くことをしなかった。
「彼は、8年間、一途にあなたのことだけを思ってきたのよ。彼から連絡をもらうたびに、婚約のことは忘れた方がいいと辰巳たちは何度も彼に言ったのですって。それでもずっと、彼は瞬のことを思い切れずにきたの。そんな彼に、私は とても本当のことは言えないわ。それに、もしかしたら彼も自分の伴侶が同性だということを障害と思わない氷河タイプの人間かもしれないし」

「氷河は特別。変なんです」
瞬が再度、きっぱりと断言する。
瞬のその断言に、星矢は一も二もなく賛同して大きく頷いた。
「氷河みたいなのがごろごろしてるのはイヤだよなー」
星矢は決してゲイに対する偏見を持っているわけではない。
ただ彼は、氷河という男に対して多大な偏見を抱いているだけだった。
氷河はなにしろ、ゲイでもなければバイでもないのに同性の瞬に惚れ込むという、奇抜・特異な芸当をしてのけた、世にも稀なる奇人なのだ。

断固として この婚約を受け入れるつもりがないらしい瞬に、沙織が急に険しい顔を向ける。
重々しい口調で、彼女は瞬に告げた。
「昨年から、半導体部門の研究と製造分野で、彼のお父様の会社とグラードの業務提携の話が進行中なの。今、グラードと井深電器の関係をまずくするわけにはいかないわ」
「沙織さん……」
今は“社長でも何でもない”人物と 身寄りのない少年との間に横たわる個人的なレベルの冗談――と思われていた事態に、突然 世界的ブランド力を持つ二つの企業が大きな影を落としてくる。
これは瞬と瞬の婚約者ふたりだけの私的な問題ではないのだと、沙織は暗に告げていた。

「何が何でも彼と結婚しろと言っているわけじゃないのよ、もちろん。彼の機嫌を損ねず、彼を傷付けず、グラードの威光も保ったまま、この婚約の話をなかったことにしてほしいだけなの。彼の美しい初恋の思い出を壊さないように、彼がこの城戸の家とグラード財団に悪感情を抱かないように、細心の注意を払った上で、ね。瞬、これはあなたにしかできないことなの」
「……」
つまり、自分は面倒なことはしたくないから、当人同士で話をつけろと――うまく話をつけろと――城戸家の現当主 兼 グラード財団総帥は、彼女の金で生活している孤児に命じているのである。
思いがけない女神の脅迫に、瞬はたじろがないわけにはいかなかった。

「そんな無理を言わないでください……!」
井深電器産業の御曹司が心に決めていた婚約者が男だったという時点で既に、彼の美しい初恋は この世に存在していない。
存在していないものを壊すなと言われても、瞬には対処の仕様がなかった。
無理無体なことを要求された瞬の声が、つい泣き声じみる。
その声に誰よりも素早い反応を示したのは、他ならぬ瞬の同性の婚約者だった。

「瞬さん……!」
掛けていたソファから立ち上がった御曹司の視線が、客間のドアの周りにたむろしている城戸家の住人たちの方に向けられる。
彼の美しい初恋の相手の姿を、御曹司の目はすぐに探し当てた。






【next】