井深電器産業の御曹司が留学のために渡米したという連絡が城戸邸に入ったのは、1ヶ月後のこと。
これで瞬の婚約騒動は完全に収束したと、アテナの聖闘士たちは気を安んじることになったのである。
――が。

その連絡が入った当日、一人の青年が瞬を訪ねて城戸邸に現われた。
アポイントメントも取らずに押しかけてきた青年は、彼が駆ってきた某イタリア社産の深紅のスポーツカーや その服装から察するに、おそらくどこぞの金持ちのボンボンなのだろう。
ご指名を受けた瞬が沙織と共にエントランスに出ると、いかにも苦労知らずな顔をした能天気なボンボンは、挨拶らしい挨拶もなく、しっかと瞬の手を握りしめてきた。

「8年前、ここのお嬢さんにムカデの玩具を投げつけられて立ち往生していた子供を憶えているでしょうか。あの時、瞬さんにムカデを取り除いてもらった者です。瞬さんの勇気に感動していたら、こちらの先代のご当主が、そんなに瞬さんを気に入ったのなら、ぜひ妻に迎えてくれとおっしゃって……。大人になっても気持ちが変わらなかったなら、こちらを訪ねるようにと言ってくれたんです。来ました!」
「来ました――って……。え?」
「僕は今、亡き城戸翁への感謝の気持ちでいっぱいです! こんなに可愛らしい方が僕の婚約者だとは! 式はいつにしますか!」

興奮気味にまくしたてる無礼千万な男を、問答無用で瞬から引き剥がし、氷河は瞬の第二の婚約者の身体を壁に叩きつけた。
そして、今は既にこの世にいない男に向かって憎々しげに毒づく。
「城戸のジジイめーっ !! 」
最初の一人はともかく二人目ともなると、星矢も氷河の乱暴を咎める気にはならなかったらしい。
「瞬、おまえにはいったい何人婚約者がいるんだよ!」
気を失った客人を無視して、星矢は瞬を呆れたように怒鳴りつけた。
しかし、そんなことを問われても、瞬には答えようがなかったのである。

「知らないよ! あの頃、沙織さんは、本物そっくりの毛虫だのムカデだのの玩具に凝ってて、お客様が来るたび、そのお客様の服にくっつけて遊んでたんだから! 僕、何人の人から取り除いてあげたか……。僕だって、あんなもの、気持ち悪くて触りたくなんかなかったのに……!」
当時のつらさを思い出したのか、シュンの瞳には涙がにじんでいる。
瞬を責めてもどうにもならないことに思い至った星矢の口調は、ふいに ひどくしんみりしたものに変わることになった。

「ガキの頃のおまえって、まじで沙織さんの尻拭いばっかりさせられてたんだな……」
「今もだろう」
「瞬だけじゃなく、俺たち全員がそうだ」
青銅聖闘士たちの視線の集中砲火を浴びた女神アテナが、目許と口許を引きつらせる。
それから彼女はわざとらしく威厳を取り繕って、実に空々しい高笑いを城戸邸のエントランスホールに響かせたのだった。

「ほほほほほ。だから、言ったでしょ。あれは、ウチを訪ねてきたお客様の緊張感を解いて、場を和ませようとした私なりの思い遣りで――」
誰が その言葉を信じるだろう。
思い起こせば8年前、この城戸邸で最もたちの悪いいたずら坊主は、星矢ではなく、この屋敷のお嬢様だったのだ。

「ああ、アテナには地上の平和を守るという神聖で崇高な責務があるのよ。こんな些細なことに かかずらってはいられないわ。すぐにでも聖域に戻らなくては」
青銅聖闘士たちの誰一人、女神アテナの言葉を信じていない現状を認めた沙織が、少しずつ後ずさる。
「沙織さん、逃げる気かよっ!」
「私は何かと多忙なのよ。あとはよろしくねー」

戦いの場においては、退くことも有効な戦法の一つである。
さすがに戦いの女神は あらゆる戦法を心得ているらしく、星矢たちが女神の吊るし上げに取りかかろうとした その時には、彼女は既に 超の字がつくほどの素早さで その場から逃げ出してしまったあとだった。
「女神アテナともあろうものが、敵に後ろを見せるとは」
「魔鈴さんはいつも、聖闘士は絶対に敵に後ろを見せちゃ駄目だって言ってたのに、肝心の女神がそんな卑怯でどーすんだよ!」
青銅聖闘士たちが歯ぎしりしても、すべては後の祭りである。

青銅聖闘士たちは、子供の頃の沙織の悪趣味の数々を思い出すにつけ、瞬の婚約者はまだ何人もいるような気がしてならなかった。
おそらく、城戸翁は、孫娘のいたずらを隠蔽するための人身御供として、瞬を最大限に利用していたのだ。
瞬は、そんなにも幼い頃から、我が身を犠牲にして人々を救うアンドロメダ座の聖闘士になることを宿命づけられていたということになる。

「まあ、その何だ……。これから何人、男の婚約者が現われようと、強く生きていくんだぞ、瞬」
「なに、いざって時には、氷河が片っ端から恋敵を氷づけにしてくれるから、大丈夫だろ」
仲間たちの慰めも、瞬の傷付いた心を癒してはくれなかった。
瞬が傷付いていたのは、何よりもまず、瞬の婚約者を名乗る者たちが、瞬が少女だということに全く疑念をはさんでいない――ということだったのだ。
実は、瞬はこれまで、初対面から自分を男子と認めてくれる人間に数えるほどしか出会ったことがなかったのである。

そして、実は、氷河はその数少ない人間たちの中の一人だった。
瞬が同性である彼を受け入れる決意をしたのは、彼からの告白を受けた時、彼が瞬に告げた、
「おまえが俺と同性だということに、俺は長い間 悩み抜いた」
という一言に感動したからだったのである。
瞬が男子だということを、氷河はしっかりと認めてくれていたのだ。
瞬は、それ以前も それ以後も、氷河のその告白ほどに心震える美しい言葉を聞いたことがなかった。

心の琴線に触れる言葉は、人それぞれである。
そして、男という商売は誰にとっても――瞬には特に――ひどく つらい商売なのだった。






Fin.






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