「金は弾むから、この坊やを男にしてやってくれ」 翌日ヒョウガがシュンに引き合わせたのは、モンテ・コルヴィノの町で最も華やいだ娼館の 簡単な事情は既に話してあった。 女将とはいえ、完全に現役から引退したわけではなく、歳はまだ三十路に入っていないはずである。 女将は若く美しく見えたし、ヒョウガは、女の歳を気にする男ではなかったので尋ねたこともなかったが。 バビロニアの昔とは異なり、またゲルマンの後進国とも異なり、現在のイタリアでは、娼館を経営するためには役所への書類の提出が必要である。 女将はその書類作成を書記に頼まず自分でやってのける才女だった。 破産した商家の娘という噂だったが、美貌や手管はもちろん、その才覚を見込まれて、先代の女将に引き立てられ、館を引き継ぎ、今ではこの町にある多くの娼館の許締めのような立場に就いている。 後ろ盾には相当高位の聖職者から貴族までが揃っており、名目上は共和制をとっているこの町の、裏通りの女王と言っても過言ではないだろう。 ヒョウガの依頼を受け、かなり乗り気でこの塔にまでやって来たにも関わらず、シュンの様子を見るや、彼女は急に渋い顔になった。 天使を汚してくれと言われたら、誰でもそんな顔になるだろう。 娼婦とはいえ、彼女は紛う方なきキリスト教徒なのだ。 「こんな綺麗な子、神様の罰があたるよ」 「いくら綺麗でも、ただの人間だ。まあ、やるだけやってみてくれ」 女将のためらいはわかるのだが、モンテ・コルヴィノ一門の一人として、ヒョウガはそう言うしかない。 彼女をエデッサの捕虜の牢獄に残し、彼は早々にその場から立ち去った。 とはいえ、事の顛末は気になり、また女将の報告も聞かなければならないので、汚らわしい陰謀が行なわれようとしている塔の外に出るわけにもいかない。 仕方がないので、ヒョウガは、シュンの部屋の一つ下の階にある部屋で、塔の警備を任されている従士たちとカード遊びをしながら、時の過ぎるのを待つことにした。 従士たちは、シュンが住まう階にあがることやシュンと言葉を交わすことは禁じられているらしいのだが、それでも稀にシュンの姿を垣間見る機会はあるらしく、枢機卿の企てを、口を揃えて非難していた。 モンテ・コルヴィノ一門への反抗者という位置づけのヒョウガに、彼等は遠慮なく一門の者たちの悪口を並べ立て、ヒョウガは少々複雑な気持ちで彼等の言葉を拝聴することになったのである。 反抗者ではあっても離反者にはなれない自分が、ヒョウガは卑怯に思えてならなかった。 女将がヒョウガたちのいる階に下りてきたのは、彼女がシュンと二人きりになってから、およそ1時間後。 つまり、女将は、1時間、シュンと二人で籠もった部屋から出てくることはなかった。 それだけの時間があれば、容易に事は為せる。 枢機卿の企てはうまくいってしまったのかと、ヒョウガは矛盾した失望に囚われることになった。 だが、 「うまくいったのか」 というヒョウガの問いに、女将は大きく二度ばかり首を横に振った。 「駄目だよ。無理」 「そんなに子供なのか。確かに細いが、もう16なんだぞ」 「そうじゃなくてさ……!」 女将が、苛立ったように眉をしかめる。 そういうことしか考えられないのかと、彼女はヒョウガの言葉を不愉快に思ったらしかった。 「私さ、あの子の手をとって、この胸に押しつけてやったんだよ。そしたら、あの天使みたいな坊やは、人の肌に触れたのは2年振りだって言ってさ、遠慮がちに私の頬だの唇だのに触れて、最後に、『母上』って呟いて涙をこぼして……。駄目だよ、あの子はだめ」 この塔の警護を勤める従士たちは、エデッサの捕虜の境遇に以前から同情していたらしい。 女将の話を聞いて気の毒そうな顔を見せ、それから彼等は 安堵したように短く吐息した。 ヒョウガとて、本心では、彼等と共に女将の不首尾――というより、枢機卿の計画の失敗――を喜びたかったのである。 実際、胸中では大いに喜んでいたのだが、彼はその気持ちを正直に表に出すわけにはいかなかった。 不本意ながら、女将を責める表情を作る。 「おい」 しかし、この町の裏通りの女王は、モンテ・コルヴィノ一門の一人だというだけで無位の若造にすぎないヒョウガの非難の態度など、歯牙にもかけなかった。 「悪いけど、私はおりるよ。ウチの館の女たちも枢機卿様の悪事には加担させない。不可能とは言わないけど、罪だよ。あの子を堕落させる罪を、ウチの子たちに犯させるわけにはいかないからね」 「……」 ヒョウガは彼女に理強いはできなかった。 金で動かせないのなら、彼女の意思を変えることはヒョウガごときには不可能なことなのだ。 たとえヒョウガに彼女の娼館の認可を取り消す権力があったとしても、彼女はそういった力に屈することはあるまい。 娼婦だからこそ、彼女は――彼女たちは――神への信仰が篤かった。 現世で汚れてしまった分、神を畏れている。 己れの罪を知る者ほど神に近い――というのは事実だと、ヒョウガは常々思っていた。 そして、ヒョウガはやはり、女将の不首尾に、心のどこかで安堵していたのである。 そんなヒョウガの気持ちに、女将は気付いていたようだった。 ひそりと低い声で、ヒョウガに耳打ちをする。 「気をつけないと、あの子は欲望からじゃなく、寂しさから罪を犯しかねないよ」 「女将……」 「死なせたくないんでしょ。私が失敗したと言ったら、ほっとした顔してた」 「……」 ヒョウガは、あの枢機卿の身内でありながら、腹芸が得意ではなかった。 かつ、世の中には、成人した男子が表情を読まれても『仕方がない』と思ってしまえる種類の女が存在する。 女将はそういう女だった。 そして、この町には、この女将以上の手管を備えた女はいない。 次に打つ手に詰まったヒョウガは、シュンを汚すのは、何も女でなくてもいいのかと考え――彼はすぐにその考えを放棄した。 この町にもそういう趣味の持ち主が相当数いることは知っていた。 しかし、ヒョウガは、彼等の――特に、聖職者たちの――欲にまみれた顔を思い浮かべ、彼等の手がシュンに触れることを考えただけでぞっとしてしまったのである。 どうせ汚さなければならないのなら、シュンは美しい者に汚させたい。 そういう点で、女将は、美貌で聡明で人の心の機微にも情けにも通じた、理想の罪の犯し手だったのだ。――が。 |