会えば苦しい。 だが、会わずには生きていられない。 本当に呼吸もできないような気持ちになる。 ヒョウガは、自分がシュンにとって危険この上ない存在だとわかっていながら、シュンの許を訪ねずにはいられなかった。 二人の間に以前のような会話が生まれることは もはやなく、同じ場所にいても二人は互いに無言で見詰め合うことしかできなくなっていたのだが。 ヒョウガが、あの女将に町の通りで出会ったのは、シュンと同じ場所で同じ空気を吸っていることに耐え切れなくなったヒョウガが タルソスの塔を出、自邸に戻ろうとしていた時だった。 「あら、お見限り。どうしたの。館の子たちが寂しがっているわよ」 女将が、しばらく見ないうちに驚くほど様子の変わったヒョウガに 奇異の目を向けつつ、軽口を叩いてくる。 「行っても、まともにお相手できないんじゃ、聖女たちに失礼だろう」 ヒョウガは彼女に、力ない笑みを向けた。 女将の知っているモンテ・コルヴィノ一門の放蕩児は、以前はもっと若者らしい傍若無人を その全身にまとっていた。 つまり、傲慢な子供だった。 それが、今では、エジプトの砂漠で悪魔の誘惑を退けつつ隠者の生活を営む聖アントニウスさながらの風情である。 女将は、大して歳の違わないヒョウガを、母のように心配して声をひそめた。 「あの天使様は」 「清らかなままだ」 ヒョウガの返答に、女将は短く安堵の息を洩らした。 では、ヒョウガは、自分の犯した罪に恐れおののいて憔悴しているわけではないのだ。 「じゃあ、枢機卿に頼まれた仕事は失敗したのね?」 女将は口許に笑みを浮かべたが、ヒョウガは彼女と共にその事実を笑顔で喜ぶわけにはいかなかった。 犯してしまった罪よりも、犯してしまうかもしれない罪の方が 人を より強く苦しめるものなのだということを、ヒョウガは今では知っていた。 「欲望を抑える方法を知らないか」 「え?」 ヒョウガの呻くような声音に、女将は虚を衝かれたような顔になった。 その逆の方法ならいくらでも知っていたし、逆の相談ならこれまでに幾度も受けてきたが、ヒョウガの相談事は、世の男たちが一般に抱く悩みとは真逆である。 困惑顔の女将に、ヒョウガは正直に彼の現在の窮状を告白した。 それが可能なら、ヒョウガは一足飛びに80歳の老人になってしまいたいと、本気で願っていたのだ。 「俺はシュンの側にいたい、シュンに生きていてほしい。だが、シュンが清らかであればあるほど、汚したい気持ちが強まって――これでは、教皇庁の悪徳司教たちと変わらない。奴等を軽蔑できない」 「ああ……そういうこと」 そういう気持ちが初めて経験するものなのなら、ヒョウガはこれまでに抱いた相手の誰にも恋をしていなかったということになる。 彼等が親しくしていた女たちは皆、神の禁じる仕事に従事している罪深い者ばかりなのだから、それは聖なる一門の者としては当然のことではあるのだが、それでも、女将は少し寂しい気持ちになった。 「私たちが、神の教えに逆らって、こんな商売をして、真っ当な人間たちから蔑まれても生きていられるのはなぜだと思う?」 女将は、ヒョウガの望む“方法”については、せいぜい欲望の源を切り落とすくらいの手段しか知らなかった。 が、まさかヒョウガにそんなに危険な真似をさせるわけにはいかない。 だから彼女は、わざと話をはぐらかした。 「おまえたちは、どこぞの聖職者たちより神の教えに忠実だ――商売以外は」 ヒョウガは、娼館の女たちに恋をしてはいないが、軽蔑しているわけでもないらしい。 女将は、ヒョウガの言葉に少し救われた気持ちになった。 「望んで今の境遇に堕ちたわけじゃない。欺瞞かもしれないけど、私たちは、自分の心は神の望む処女のままだと信じている。本当に大切な人に出会った時、その心を捧げるんだ。笑ったりしないでおくれね。そう思ってなきゃ、この商売はやってられない。うちの館の子たちだって、貧しささえなかったら、誰もこんな境遇には堕ちなかった。みんな、神様を信じている普通の娘たちばかりだよ」 ヒョウガもそれは知っていた。 神の御心に沿う“商売”をしている者たちと、神の意思に背く“商売”をしている娘たち。 だが、その心の内は、どう考えても、表面に見える形とは逆なのだ。 そんな世界が、ヒョウガは苛立たしかった。 「世俗の神のいない世界に行きたい。シュンを連れて、行きたい。そんなことは無理なのに、シュンにとって、今の俺くらい危険な存在はないことはわかっているのに、それでも俺はシュンに会わずにはいられないんだ……」 悪いのは、人であり神ではない。 それはわかっていても、ヒョウガは神を恨まずにはいられなかった。 神はどうして、人に“恋”などという感情を与えたのだろうか、と。 「……」 初めての恋に苦悩する我儘で未熟な子供の苦しみを、女将は少しでも減らしてやりたいと思った。 だが、彼が望む“方法”を手に入れても、それは根本的な解決にはならない。 女将は声をひそめ、でかい図体をした子供に、そっと耳打ちをしたのである。 「どうにもならなくなったら、天使様を連れて、この町から逃げなさい。この商売をしている者は、どこの町でも繋がっていて、組合がある。その時には、どこの町の娼館の許締めとでも話をつけて、かくまってやれるよ。商売柄、みんな口は堅いし」 「女将……」 そんなことが可能なのかと疑い、ヒョウガは目をみはった。 娼婦と知りつつ女将に母を重ねるという大胆をしてのけるシュンなら、自分が娼婦にかくまわれることに嫌悪を抱くことはないのかもしれないが、たとえ その命を永らえるためとはいえ、シュンは果たしてモンテ・コルヴィノ一門の放蕩児と共に逃げることを“よし”としてくれるだろうか。 ヒョウガは、心の中で首を横に振った。 |