「……悪い予感がするんだ」
「悪い予感?」
「僕の中で何か良くないものが目覚めようとしている。暗くて強くて重くて不気味なもの」
「何のことだよ……?」
星矢は、正直なところ、瞬が何を言っているのかが皆目わからなかったのである。
本当にわからなかった。
氷河の顔が好みでないとか、氷河のマザコンが気に入らないとか、そういうことを言われる方が、星矢にはまだ、瞬が氷河を拒絶する理由として はるかに合点がいった。

「何なのかわからない。でも、善い力じゃない。それは、まるで死の影みたいに不吉で――僕は、今にきっと氷河を苦しめることになる。氷河を不幸にする。だから、これ以上好きにならない方がいいんだ、僕も氷河も。氷河はこれまでに十分悲しい思いをしてきた。普通の人が一生に味わう分の何倍も 苦しんできた。僕はもうこれ以上、氷河につらい思いをさせたくない。まして、僕のせいでなんて、絶対に嫌だ」

瞬は何を言っているのだろう。
そして、瞬は正気でそんなことを言っているのだろうか――?
星矢は尋常でない混乱を覚え、その混乱は彼に目眩いをすら起こさせかけたのである。
瞬が真顔で語る拒絶の理由は、紫龍にも想定外のものだったらしく、龍座の聖闘士もまた瞬の言葉に戸惑いを隠せずにいる。
しかし、瞬はどこまでも真剣で――その表情は この上ないほど深刻だった。
「本当は、僕たちは離れた方がいいんだと思う。でも、僕と氷河の間にある仲間という絆までが失われてしまったら、僕は寂しくて生きていけそうにないから……」

「ちょ……ちょっと待てよ、瞬! つ……つまり、何か? “悪い予感”なんて、そんな訳のわかんねーもんのために、氷河はおまえに振られたのか !? おまえは、そんなもんのために、あの氷河をあそこまで打ちのめして、立ち上がれなくして、挙句の果てに あんな犯罪まがいの暴力まで振るわせたっていうのかよっ !? 」
「でも、本当に善くない力なんだ。……多分」

『多分』『今にきっと』『悪い予感が』――。
そんな不確かなもののために、無神経で無遠慮で身贔屓の激しい自分勝手な あの男は、生きる目的を奪われてしまったというのだろうか。
二人の間には、もっと確かな、目に見える障害が横たわっているのだとばかり思い込んで星矢は、心底から気が抜けて、そして、これまで彼が感じていたものとは趣の異なる新たなる怒りに支配されることになったのである。

「暗くて重くて不気味……って、そりゃあ、石炭かタングステンか何かか !? そんなのが、おまえのどこにあるっていうんだ。もしそれが本当だったとしても、そんなもん、俺がブッ飛ばしてやるよ!」
「おまえの言う悪い予感とやらを否定するつもりはないが……そんな不確実なもののために、あの氷河があの有りさまというのは、いくら何でも奴が哀れすぎる。瞬、考え直せ。その悪い予感が、万一実現してしまったら、その時には、氷河がつらいことにならないよう、俺もできるだけのフォローをすることを約束する」

「星矢……紫龍……」
瞬は、それをごくプライベートな――余人を巻き込むようなことではないと考えていたので、仲間たちの言葉を逆に意外に思ったのである。
それは、いかにも星矢らしく紫龍らしい言葉だったというのに。
「おまえ、氷河だけじゃなく、もっと周りを見ろよ。おまえら二人のことは、おまえら二人だけのことじゃねーの。おまえらがぎくしゃくしてたら、俺たちまで闘いにくくなるだろ。勝てる闘いにも勝てなくなる」
「俺たちにできることがあれば、俺も星矢も協力は惜しまないぞ。俺たちは――仲間だろう?」

「あ……」
孤独な死をも覚悟して 出口のない迷宮を一人でさまよい歩いている時に、突然空から『出口はここにある』と救いの声が響いてきた――。
そんなふうに、瞬は仲間たちの言葉に戸惑うことになったのである。
確かに、頭上に広がる青い空には、自由と 幸福の可能性があるように見える。
しかし、その自由な空に、翼を持たない人間はどうやって飛び立てばいいのだ。

「だいたい、その“予感”ってのは何だよ! 予感だか予言だか知らねーけど、誰にだって未来のことなんかわかんねーだろ」
だというのに――翼を持つ天馬座の聖闘士は、事もなげに、鎖に繋がれたアンドロメダ姫に言うのだ。
「思わしい結果が得られないことを恐れて尻込みしていたら、人は何もできなくなってしまうぞ。何か起きたら、その時に、その問題を乗り越えるための策を考えよう。みんなで」
空を翔ることのできる龍座の聖闘士もまた、それは大した問題ではないというような顔で、星矢に頷く。
彼等は自由に空を飛ぶことのできる力を生まれながらに その身に備えているから、そういうことを気軽に言ってしまえるのだと、瞬は思った。

「でも、僕は、氷河をこれ以上苦しめたくないんだよ……!」
自分がその力を有していないことは構わない。
だが、瞬は、そのために氷河を苦しめることだけは、どうあっても避けたかったのである。
瞬が我が身の内に感じている黒い影は、生きている死のように暗く不吉で、容易に取り除くことができるものだとは、瞬には到底思えなかった。

暗い黄泉のような不安から逃れられずにいる瞬を、紫龍が少しばかり焦れたように見詰め、言う。
「奴が、今以上に苦しむことができるとは思えないが」
「氷河は今、いちばん苦しんでる。おまえのせいだ。おまえが勇気を持てないせい。うん、悪いのはおまえの方だ。そうだったんだ」
「星矢、それはいくら何でも言いすぎだろう」
紫龍にたしなめられた星矢が、肩をすくめる。
それから星矢は、臆病な仲間に対して、いかにも彼らしい明るく楽観的な笑顔を向けてきた。

「大丈夫。何が起こったって乗り越えられるって。俺たちはアテナの聖闘士なんだぜ」
自分の身の内の暗い影も、彼の明るさの前には無力のような気がする。
そうであってほしい。そうに違いない――。
瞬は、仲間たちの励ましに触れているうちに、徐々にアテナの聖闘士としての力と本分を取り戻しかけていた。
その力が“希望”と呼ばれるものだったということを思い出しかけていた。
しかし――。






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