瞬は、2年前、確かに俺たちと共にこの世界に戻ってきていた。 どういう弾みでか――それはハーデスの最後の嫌がらせだったんじゃないかと、俺は思うんだが――あの廃墟から数十キロも離れた矢車草の花畑の中で、瞬は意識を取り戻したということだった。 その時、瞬が取り戻したのは意識と自分の名前だけ。 それまでの記憶をすべてなくしていた瞬は、知る者とてない異国の地で生きていくために、過去を作り、存在しない家族を作り、必死に、そして一人で、この2年間を生きてきたのだ。 アテナの聖闘士としての記憶を取り戻したことによって、瞬は、今度はその2年前の記憶を失ってしまっていた。 俺がシュンを傷付けたことも。 それでもシュンは、彼を傷付けた男を救うために、ハーデス城の廃墟で見付けた俺の冷たい身体を抱きしめてくれたのだろう。 消えてしまったシュンに、俺は何と言って詫びればいいのか――。 俺は、俺の瞬の前で その瞬の姿が、2年前とまるで変わっていないのは、奇跡としか言いようがなかった。 だが、この2年の間、瞬の時間は止まっていたのだのだから、そういうこともあるんだろう。 「いろんなことが嘘だと気付いてはいたんですが、なにしろシュンは日本語が堪能で、日本人客にひどく受けがよかったものですから、つい――」 ホテルの支配人は、事情を知らされると、しどろもどろで瞬ではなく俺に謝ってきた。 「すみません。僕、この町に来てからのことを全部忘れてしまっていて……。とてもお世話になっていたことは、氷河から聞いたんですが……」 「忘れたのではなく思い出したんだろう。よかった。とても残念だが」 彼は、俺を、瞬を捜しに来た保護者か何かと思っているようだった。 俺を邪まな気持ちで瞬に近付いた旅行者と誤解していたことも手伝って――それは必ずしも誤解と言い切れるものではなかったのだが――彼は、瞬が俺と共にこの町を出ることを妨げるわけにはいかなかったらしい。 瞬が生きていたことを日本に知らせると、星矢たちは、すぐにこちらに飛んでくると言ってきた。 瞬と俺は、聖域で星矢たちと落ち合うことにして、瞬が2年間を過ごした町をあとにしたのである。 瞬にとっては2年振りの聖域。 しかし、瞬の主観では、そこはほんの数日前に冥界に向かって離れたばかりの場所で、瞬はあまり懐かしさを感じていないようだった。 仲間たちと共に闘い、傷付き、その友情を強固にしたその場所を懐かしんだのは、瞬ではなく俺の方だった。 あの町で、俺はもう何年間も出口のない迷路をさまよっている気分でいたから。 「しかし、記憶を失っていた時のおまえは、瞬というより星矢だったぞ」 「僕、星矢みたいになりたいって、いつも思ってたから」 熾烈な闘いの傷跡がなまなましい聖域は、だが、光と生気にあふれた場所でもある。 光あふれる世界に帰ってきた俺は、瞬のその言葉に目をむいた。 何を好んで、あの粗忽な星矢などに――と思わないでもなかったが、まあ、そういう感性もあるのだろう。 「でも、ほんとに2年? 氷河、5歳くらい歳をとったみたいに見える」 「おまえがいなくて寂しかったから――。俺は無理にでも大人にならなければならなかったんだ」 「氷河……」 多分、俺は思い切り瞬に甘えたい気分だった。 情けない泣き言を口にした俺を、瞬がしっかりと抱きしめてくれる。 その温かさ、春の空気――。 瞬が生きていたことよりも、俺は、俺が瞬なしでこの2年間を生きていられたことの方が、余程ありえない奇跡に思え、瞬を強く抱きしめかえした。 そのやわらかい髪に、顔を埋めるようにして。 「氷河……?」 俺が泣いているとでも思ったのだろう。 瞬が気遣わしげな声で、俺の名を呼ぶ。 俺は慌てて、顔をあげた。 「死ななくてよかったと思ってな。おまえを失ってから、幾度そうしようと考えたか」 「どうしてそんな馬鹿なこと……。氷河をおいて、僕が死ぬわけがないのに」 俺の告白を聞いた瞬が、少し泣きそうな目をして、それでも微笑を作る。 「もし氷河が早まったことをしてしまってたら、今頃、今度は僕が氷河の短慮を嘆いていたよ。ロミオの早とちりを嘆くジュリエットみたいに」 瞬の持ち出した例え話に、俺は苦笑した。 確かにあの悲劇の恋人たちの片割れは、ただの早とちりの大間抜け野郎だ。 「『生きていれば、いいことがある』とおまえが言っていたから、生きていたんだ」 瞬と約束していたから、その約束を守るために、俺は生き続けていた。 だが、俺は本当は、心からそんなことを信じていたわけじゃなかった。 俺の未来に幸福があるなんて、俺は一度たりとも考えたことがなかった。 瞬の言葉だったというのに――。 だが、今なら信じられる。 信じるしかないだろう。 生きていれば、人は新しい運命に巡り合うことができる。 そして、生きている人間には誰にでも幸福になる可能性があるのだということを。 「ああ、そうだな。生きていれば、いいことがある」 今度こそ心から瞬の言葉を信じて、俺は再び瞬の身体を強く抱きしめた。 Fin.
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