アテネの町は、ほぼ一年中、アジアやEU諸国からの観光客でごったがえしている。
その町に、アクロポリスのポストカードを売っている店はいくらでもあるのに、どうしてもあんパンは見付けられない。
様々な国語が飛び交う町の中をさまよっていた瞬の足は、いつのまにか聖域の――あの山に向かってしまっていた。
努力では変えられない人の心。それを変えてしまうことが可能な禁断の場所へと。

もちろん瞬は、本気でそこで何かを願うつもりではなかった。
ただ、どんな願いも叶う場面に立ったら、自分がどんな気持ちになるのか、どんな願いを願いたいと思うのか、それを知りたいと思っただけだった。

魔鈴が言っていたとおり、その山は、到底普通の人間に登ることのできるような山ではなかった。
それは、瞬の身長の2倍ほどの段差のある階段が延々と頂まで続いているような山で、しかも、足場がかなりもろい。
チェーンの力を借りれば、もう少し楽に登れるのかもしれなかったが、普段着でその山に挑み始めた瞬は、途中 幾度も足場を踏み外し、そのたび手足に幾つもの擦過傷を作ることになった。
しかし、瞬は、それで痛みを感じることはなかったのである。
瞬の意識と神経は自身の身体以外のところに向いていて――そのせいで、瞬は、自らの身体の感覚には無頓着になっていた。

どんな願い事でも、たった一つだけ必ず叶えられる場所。
しかし、そこで、『世界に平和を』と願うことはできそうになかった。
漠然としすぎる願いは、どんな結果を招いてしまうかわからない。
『アテナの聖闘士が戦わずに済むような世界を』と願えば、聖闘士の力ではどうにもならない大戦争や災害が起こるかもしれなかった。

氷河の代わりに、彼の母親の再生を願うことも考えたのだが、そりは氷河の中にある美しい思い出を消し去ることになってしまうかもしれない。
カミュの再生を願えば、戦いで命を落とした他の聖闘士たちの再生を願わないのは不公平と感じ、聖闘士だけの再生を願うことは なおさら不公平だと思う。

いっそ思い切り我儘になって、決して願ってはならない あの願い――『氷河に僕を好きになってほしい』を願ってしまえばいいのだという考えは、幾度も瞬の胸に去来したが、神の力によって変えられてしまった氷河の心を得ても、自分が苦しいだけだということは、瞬には願う前からわかっていた。

必ず叶う願い――その願いの何と不便で恐ろしいことか。
それに比して、叶うかどうかわからない夢のために努力を続ける人間たちの、いかに幸福で迷いのないことか。
彼等は、彼等の夢が叶った時、ただ喜びだけを その胸に抱くことができるのだ。

瞬は、氷河に会って訊いてみたかった。
何が氷河の望みなのか。
氷河なら、必ず叶う願いの場で、いったい何を願うのか――。

数メートルの高さから幾度も落下し、そのたびにかろうじて平地に着地する――という行為を繰り返し、身に着けている服と自らの身体を傷だらけにして、瞬がその山の頂に辿り着いたのは、空の主が太陽から幾千幾万の星たちに変わってしまった頃だった。
聖闘士がこれほど てこずるのであれば、この“丘”への一般人の登頂はまず無理である。
ロッククライミングの技に長けた人間なら 3日もかければ登ることは可能かもしれないが、一般人は、まず聖域に足を踏み入れることをためらい、また、容易に足を踏み入れることを許されないだろう。

となれば、ここに辿り着くことができるのは、必ず叶う願いを願うことを無意味と悟りきれていない未熟な聖闘士だけ――ということになる。
(僕みたいに……)
自嘲気味に、瞬は心の中で そう呟くことになった。

頭上には満天の星。
山の頂は、思っていたより広い平地になっていて、その中央には、ピラミッドの頂上に置かれるキャップストーンのような白い石の塔が建っていた。
高さは2メートルほど。
月は出ていないのに、塔の周囲はほの明るい。
四角錐に似た形をした塔は、それ自体が光を発する石でできているようだった。
石塔は、頼りない街路灯よりは はるかに広い範囲を その光で覆っている。

その塔の足許に、瞬は、人影があることに気付いた。
塔の壁の一面に背と肩を預けて地面に座り、星を見上げている人間が一人。
「氷河……」






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