その日、夕食時になっても、瞬は仲間たちの前に姿を現さなかった。
当然のことではあるが、氷河は、その夜、食卓に出された“ピーマンと大根のイタリアンサラダ”のピーマンをすべて残した。
食後 ラウンジに移動してからも、氷河はしばらく、自分がどう動くべきなのか――あるいは、動くべきではないのかを、迷っていたのである。

星矢ほどではないにしろ、自分が粗忽で無神経なところのある男だということを、氷河は自覚していた。
万一、瞬の涙が白鳥座の聖闘士のせいなのだとしたら、瞬の涙の元凶である男の軽率な言動が、瞬を更に泣かせることにもなりかねない。
せめて、瞬の涙の原因に関して身に覚えがあったなら、対処の方法に考えを巡らすこともできただろうが、氷河には本当に、自分が瞬を泣かせるようなことをしでかした覚えがなかったのだ。

氷河がラウンジで自身の進退について考え始め、考えあぐね、迷い、ためらい、30分が過ぎた頃。
氷河が行動を起こす前に、瞬の方が氷河の許に出向いてきてくれたのである。

ちょうどその時、氷河は、瞬の不可解な行動の原因は、『さっさとくっつくべき二人がいつまでも仲のいい“オトモダチ”同士でいること』への抗議なのだという結論に辿り着いたところだった。
いつまでもはっきりした意思表示をしない“コイビト”のせいで、瞬は情緒不安定に陥っているのだと、氷河は考えたのである。
それならば、瞬の涙は他の何者かのせいではなくなり、涙の理由も、瞬を泣かせることになった男にとっては心地良い理由である。
そうと決まれば、善は急げ。
氷河は早速、彼が長きに渡って その胸に秘めてきた熱い思いを瞬に伝えることを決意した。
まさにその時だったのだ、瞬が氷河の前に姿を現したのは。

「氷河」
「瞬、ちょうどいい。話があるんだ」
渡りに舟とばかりに、瞬への告白を為そうとした氷河を瞬が妨げる。
瞬は、思い詰めたような眼差しを氷河に向け、
「あの……1億円あげたら、氷河は今夜一晩を 僕と一緒に過ごしてくれる?」
と、彼に告げた。

「へ?」
機先を制された形になって、氷河は思わず珍妙な声を洩らしてしまったのである。
が、すぐに気を取り直す。
「も……もちろん、おまえがそれを望むなら、俺は、どんなことでも、あんなことでも――」
「ありがとう。あの……じゃ、今夜」
真っ青な頬をした瞬が、氷河の上擦った声を、またしても途中で遮る。
そして、用件だけを告げると、瞬はそのままラウンジを出ていってしまった。

第三者たちの存在を鮮やかに無視し、第三者たちの目の前で、氷河と瞬の夜の待ち合わせは至極あっさりと締結された。
当然、第三者たちは、しばし あっけにとられることになってしまったのである。
やがて、何とか口をきけるようになった紫龍が、感慨深げに呟く。

「ついにその時が来たか。してみると、瞬の情緒不安定は、氷河がいつまでも態度を明確にしないことに不安を覚えていたせいだったんだな。だが、それも明日にはすべてが解決しているというわけだ。今夜、氷河が致命的なミスを犯さない限り」
どう考えても、それは、氷河にプレッシャーを与えるための からかいだったのだが、紫龍の言葉は、この急転直下の展開に 呑まれそうになっている氷河の耳には届いていないようだった。

「でも、なんか、瞬らしくねーっつーか、何つーか……。それに、瞬の奴、何か変なこと言ってなかったか」
「何か言っていたか? まあ、俺もまさか、瞬の方から氷河に誘いをかけてくるとは、思ってはいなかったが。おそらく緊張していたんだろう。自分のベッドに男を招き入れるなんて、瞬には初めてのことだろうし、こんなことは世間にざらにあることじゃない」
「うん……。そうなんだけどさ……」

それが、この違和感の原因なのだろうか。
瞬は、自分の大胆な申し出に、羞恥を通り越して緊張していただけ――だったのだろうか。
すっかり血の気が失せてしまっているようだった瞬の青白い頬に、星矢は妙な引っかかりを覚えていた。
星矢の懸念を察して、紫龍が軽く笑ってみせる。
「心配しなくても、明日には氷河が瞬の頬を薔薇色にしてみせてくれるだろう」
「ん……そうだよな」

どうせ いつかはそうなってしまうのだと思っていたことが、ついに実現しようとしているだけのことなのだ。
そう自分自身に言い聞かせ、星矢は胸中の不安を忘れることにした。






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