微風と、時折 空の高いところで微かに響く鳥の鳴き声。 同じ地上のあちこちで、岩が砕け地が裂けるような戦いが起き、敵と味方が命のやりとりをしていることが信じられなくなるような別世界がそこにあった。 そして。 花と静けさでできた別世界の中心には、少女とも少年ともつかない一人の人間の姿があった。 花の中に座り込み、何をするでもなく――ただ花と静けさと穏やかさに同化するように佇む小さな人間。 ここは彼(彼女?)の花園なのだろうかと、ヒョウガは考えた。 彼(彼女)の所有する土地ではないにしろ、彼(彼女)が先に見付けた場所なのだとしたら、花を分けてもらうにはその許可が必要だろう、と。 本当は、その姿を間近で見たかっただけだったのかもしれないが、ヒョウガはその時には、彼(彼女)に近付く理由を作ることの方に思考が集中し、自分にそんな理由を求めさせる心の働きまでには気がまわっていなかった。 なるべく驚かすことのないように静かに、自然が作った花園の中心に向かって、ヒョウガは歩を進めた。 とはいえ、そこは近寄る者の姿を隠すものの何もない平地である。 ――身に着けている丈の短い薄物の服越しに、ヒョウガには彼が少女ではないことがわかった。 性別されていない子供の体型に似た外見と背の高さを考えると、彼はどう考えても10代半ばの少年だった。 その手足は少女のそれより白く細くなめらかで、その面差しは、少女のそれより むしろ花の風情に似ていたが。 ヒョウガの姿を視界に映すと、彼は怯えたような眼差しをヒョウガに向けてきた。 見知らぬ男の出現は、彼を身動きできないほど驚かせ、怯えさせたらしい。 「花を……!」 とにかく、危害を加えることが目的ではないことをわかってもらわなければならない。 ヒョウガは、彼に逃げられてしまわないために、事前に用意しておいた“理由”を急いで言葉にした。 「花を分けてほしいんだ」 事前の防備はやはり大事である。 ヒョウガが提示した理由に、彼は少しだけ警戒心を緩めてくれた――らしい。 花を求めてやってきたという男に、彼は、まだ僅かに緊張の色は残っていたが、それでも微笑を見せてくれた。 「ここの花は誰のものでもないよ」 彼は、その面差しだけでなく声までが、白く小さな野の花のようだった。 大輪の花の豪華さや傲慢はかけらもない。 無心に咲く野の花のように清楚で控えめですらあるのに、確かに蜜を含んでいる――声。 「そうかもしれないが……」 それが鑑賞用の花だったなら、ヒョウガも気まずさを覚えることはなかっただろう。 そういう花は、自分が見られるための存在だということを意識していて、そのように振舞う。 見られることに満足し、見る側の人間も遠慮は覚えない。 しかし、見られることを意識していない野の花は、平気で無遠慮に人間を見詰め返してくるのだ。 彼の眼差しがまっすぐ自分に向けられてくることに、ヒョウガは戸惑いを覚えた。 だが、その瞳から目を逸らすことができない。 「どうか?」 白い花が、言葉を途切らせたヒョウガの顔を見あげてくる。 「あ、いや……」 事前に用意しておいた“理由”は既に使用済み。 彼にこれ以上不審の念を抱かせないためには、急いで何ごとかを言わなければならない。 だが、すぐには気の利いた言葉を思いつけなかったヒョウガは、結局正直になることしかできなかったのである。 「1億年前に使い古されたような陳腐なセリフを、つい言いそうになってしまったんだ」 「……どんな?」 「花の精かと思った――と言いそうになった」 一瞬の間をおいて、花の精が大々的に吹き出す。 彼は花の精にしては少々感情表現が大らかで――してみると、彼はやはり人間らしかった。 花の精に出会った――そんなことを本気で考えた自分に苦笑しながら、ヒョウガは、なにやらひどく楽しそうに笑っている花の精の前に片膝をついた。 間近で白い花の花びらのようになめらかな彼の頬を見ると、ヒョウガは、だがやはりこれは花の精と見紛っても仕方がないという気になってしまったのである。 花の精は、笑いを噛み殺そうと懸命の努力を続けているようだった。 「1億年前に使い古されたなんて、そんなことないと思う」 「100年前くらいまでなら、そんなことを言っても笑われなかっただろうか」 「多分、今日でも大丈夫なんじゃないかな。僕もあなたを見た時に同じことを思ったから」 「……」 花の精に『花の精のようだ』と言われることほど気まずいことはない。 ヒョウガは、自分が無垢でも無欲でもないことを自覚していた。 「それは……目が悪いんじゃないか。俺はそんな可愛いものじゃない」 少しばかり苦い思いで答えたヒョウガに、花の精が微笑を向けてくる。 「そうだね。あなたは花にしては鮮やかすぎるみたい。お陽様の光と空の色でできてる」 そんなことを言われたのは初めて――ではなかったが、自分より確実に美しい人間に真顔でそんなことを言われたのは、ヒョウガはこれが初めてだった。 ヒョウガの真の姿を知る者は、誰もそんなことは言わない。 ヒョウガの手が倒した敵の血で幾度も濡れたことを知っている者は、冗談にでも皮肉にでも、決してそんなことは言わないのだ。 だが、その時ヒョウガは、本当に自分が陽光や青い空だったならよかったのに――と、夢のようなことを考えたのである。 それらは、花にとって必要なものだろう。 花の精に必要とされるものなのだ。 そんな考えを、もし彼に告げたなら、彼はまた盛大に吹き出してみせるのだろうか――と、ヒョウガは考えた。 これもまた、1億年前に使い古されたような陳腐なセリフ。 だが、その言葉が陳腐なものになってしまったのは、それが1億年前から変わらず、人が誰でも願う願いだったからなのに違いない。 誰かに恋をした時、人は必ずそんなことを願うのだ。 彼(彼女)に必要とされる存在になりたい――と。 |