“敵”の姿は、いつのまにか その場から消えていた。
花園に咲いていた花の半ば以上が、“敵”の手によって無残に散らされている。
その中に立つシュンの姿は、ヒョウガの目に、彼がアテナの聖闘士であることを知る以前よりも弱弱しく力ないものに映った。
聖闘士であるシュンが、小さく、明確に怯えた声で呟く。

「い……言えなかったの。ヒョウガは花の精みたいに綺麗な人が好きなんでしょう? 僕は――僕の手は、これまでに僕が戦い倒した人たちの血で汚れている。そんな僕を、ヒョウガにだけは知られたくなかった……」
シュンは花の精などではなかったのだ。
そして、戦うための力を持たない非力な人間でもなかった。
彼は、戦いに怯え、自分自身が聖闘士であることを怖れる、アテナの聖闘士だった。――ヒョウガと同じに。

「俺は――敵を倒し、人を傷付けることが生きている証とも言えるアテナの聖闘士だ。俺がそんな男だと知ったら、おまえは俺を嫌い恐がるだろうと思った。だから、俺は本当の自分の姿をおまえに見せるわけにはいかなかったんだ――」
聖闘士であることを怖れながら、それでも自分の“本当の”姿はアテナの聖闘士だということを、ヒョウガは知っていた。
悲しいことに、その姿を捨て去ることは、自分が自分でなくなることだということも。――おそらくは、シュンがそうであるように。

「おまえが花園にいたのは、花の精だったからではなく、花を守る者だったからか……」
では、二人は互いに偽りの姿で愛し合ったことになる。
好きになった相手の真実の姿を知らず、自らの真実の姿を相手に知らせず、互いを錯誤し合ったまま二人は恋に落ちた――のだ。

ヒョウガは、シュンに訊くことができなかったのである。
それでも俺を好きでいてくれるか――とは。
そして、確かめることが恐ろしかった。
俺たちの恋は真実のものではなかったのだろうか? ――ということを。
だが、それは、確かめずにおけることではなかったのである。
二人はもう、偽りの姿を装うことはできなくなってしまったのだから。

「聖闘士と知って……離れられるか。もう会わずにいることが――」
二人にできるだろうかと、ヒョウガはシュンではなく、むしろ自分に問いかけていた。
花の精でもなく、戦いを知らない人間でもないシュン――が、ヒョウガに問いかけられ、俯く。
二人が既に離れられないものになってしまっていることはわかっていた。
だが、二人がこの恋を終わらせないということは、偽りの恋を偽りと知りつつ、続けることでもあるのだ。
それでも二人は幸福になることができるのだろうか?
ヒョウガには――そして、シュンにも――その答えはわからなかった。

「ヒョウガに嫌われると思って、ずっとほんとのことを言えずにいた嘘つきだよ、僕は。聖闘士のくせに戦いが嫌いな出来損ないで、なのに戦う――戦い続ける」
「おまえが好きで離れたくなくて、だから、俺は、なるべくおまえの望む通りのものでいたかったんだ。そのために、自分の姿を偽った――」

だが、それは悪いことだろうか――?
ヒョウガは、ふと――決して自分の嘘を正当化するためにではなく――そう思ったのである。
最初から聖闘士同士として巡り会っていたとしても、シュンに愛されたい一心で、自分は自分を実際よりよいものに見せようと努めていたような気がしてならない。
そして、それは、恋をした者なら誰でもそうすることのような気がする――のだ。
恋する者のために変わろうとすること、自分の胸の中にある醜悪や欲を抑え、恋した人の前で、恋した人のために より好ましい人間になろうとすること。
それは、偽りなどではなく、ごく自然な行為なのではないだろうか。

「おまえのため――なんて、綺麗事は言わない。俺は、俺が幸福になりたかったから、そうした。俺は、おまえと離れたら、聖闘士でもいられなくなる。花の精でも普通の人間でもいられなくなる。ただの みじめで不幸な男になる。俺は――」
幸せになりたい、ただの一人の人間なのだ。――シュンと同じように。他のすべての人間と同じように。

「ヒョウガ、僕は……」
シュンが、ゆっくりとヒョウガの側に歩み寄り、その胸に肩と頬を預けたのは、聖闘士同士で嘘つき同士の恋人たちが幸福になるためには、二人のうちのどちらかが自分の罪を棚に上げ――無理にも忘れた振りをして――もう一人の自分を許してやらなければならないのだということに気付いたからだった。
シュンに寄り添われたことで罪を許されたヒョウガが、シュンを抱きしめることでシュンの嘘を許す。
もはや互いに離れられず、そして恋する者の弱さを知る者である二人は、自分が生きていくために、互いに許し合わないわけにはいかなかったのだ。


「花の精と聖闘士と、ヒョウガはどっちの僕がよかった?」
「こうして抱きしめられるのなら、どっちでもいい」
聖闘士でもなく花の精でもないシュンが、聖闘士でもなく花の精でもないヒョウガに尋ね、聖闘士でもなく花の精でもないヒョウガが、聖闘士でもなく花の精でもないシュンに答える。

戦いは続いている。
聖闘士である二人は、いつ戦いで命を落とすことになるかもしれない。
だが、それは、聖闘士でない人間も、おそらくは花の精も同じことだろう。
幸福な未来を思い描けないはずだった二人の恋は、互いを許し合うことで、幸福の可能性を手に入れた。

幸福になる可能性――。
生きて、恋し合う二人に、他に必要なものは何もなかった。






Fin.






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