ところで、この理不尽かつ不条理な事態に憤っているのは、実は一輝ひとりだけではなかった。
瞬の兄の女体化という珍事は蛇の呪いによって引き起こされたことであり、瞬には何の責任もない――というところに話が落ち着き、一応の安堵を得ることのできた氷河は、その胸に新たな怒りの炎を燃やすことになったのである。
「いったい、何がどうなっているんだ! 俺には世界が発狂したのだとしか思えん! 俺と瞬のラブラブいちゃこらストーリーが展開されるために存在している世界で、一輝が女になって何の意味がある !? 全く無意味じゃないか!」

一輝の女体化という奇天烈な事態以上に無茶な氷河の主張に、星矢が呆れた顔になる。
「世界が おまえと瞬を中心にまわってるみたいなこと言うなよ。じゃあ何か? 俺たちは、おまえと瞬のラブラブいちゃこらストーリーを完成させるために存在する脇役か何かなのか?」
「貴様がそんなことも知らずにいたとは驚きだ。もちろん、そうだ。この世界は俺と瞬のために存在する。だというのに、その世界で一輝が女体化! 無駄だ。無意味だ。無価値で不気味だ。一輝が女! うええぇぇぇ〜っっ」
「……」

確かに、氷瞬ラブストーリーの中で一輝が女性になっても、その事実が氷河と瞬の関係に影響を与えることはなく、その点において、一輝の女体化は全く無意味である。
事物の存在や事象には何らかの意味と目的があり、すべては必要にして必然であると考える人間には、この現実は受け入れ難いものだったろう。

瞬と一輝は実の兄弟であり、一輝が女性になったからといって、瞬が実兄――もとい、実の姉に恋愛感情を抱くようになることは考えられない。
つまり、氷河と瞬の恋の支援にも障害にもならない一輝の女体化は、氷瞬ラブストーリーにおいて、完全に無意味な事件であったのだ。

その事実を考えると、氷河の憤りもわからないではないが、それにしても、氷河の反応は子供じみており、また、一輝に対する思い遣りに欠けていた。
星矢が少しばかり意地の悪い気持ちになったとしても、それは彼に非のあることではなかっただろう。
「おまえと瞬のラブラブいちゃこらストーリーが展開されるためだけにある世界の中で一輝が女になったっていうんなら、運命の神様の狙いはあれだろ。女になった一輝におまえが惚れて、ステキな三角関係ストーリーのできあがり――ってやつ」
「気色の悪いことを言うなっ。この変態野郎は、カラダは女でも、顔は一輝じゃないかっ!」

恋は、もちろん顔でするものではない。
しかし、氷河のその発言は、明確に瞬の兄の顔を貶めるもの――少なくとも褒めてはいないもの――だった。
にも関わらず、一輝が氷河の暴言に対して文句の一つも言わずに沈黙を守り続けていたのは、彼が氷河の発言に賛同していたからだった。
身体が女性のものになった途端に氷河に態度を変えられてしまっていたら、一輝はそれこそ その事実を侮辱と感じていたに違いない。

そして、それよりも何よりも、一輝はとにかく自分の声を聞きたくなかったのだ。
氷河がこの無意味かつ理不尽な事態への怒りをわめきたててくれるおかげで、一輝は彼の怒りを声に出さずに済む。
氷河の無礼は、一輝には、今この時に限っていうなら、実に有難い無礼だった。

だが、この世界の主役の一人という自覚のない瞬は、兄の沈黙を 傷心と落胆のゆえと解したらしい(あながち誤解というわけでもない)。
無論、瞬が一輝を敬愛するのは、決して彼が男らしい男だからというわけではなかった。
それは、瞬が兄の強さと優しさを知っているからであり、その美徳は、性別が変わったからといって損なわれるようなものではない。

理屈ではそうであり、その理屈を思い出した瞬自身は、姉になった兄に出会ってしまった瞬間に感じた衝撃も徐々に薄れつつあった。
とはいえ、実際に本来の性を奪われてしまった兄が 容易にこの現実を受け入れられないだろうことも、瞬にはわかっていたのである。
なにしろ一輝は、瞬が『強さ』や『優しさ』と呼ぶものを『男らしさ』と呼ぶ男なのだ。
そんな兄のために、だが、瞬にしてやれることはない。
瞬にできることはただ、
「沙織さんに相談してみますね。兄さん、しばらくは城戸邸ここにいてください。沙織さんならきっと、元に戻す方法を知ってますよ」
と告げて、少しでも兄の傷心をやわらげるべく努めることだけだったのである。

声を出せない一輝が、弟の言葉に無言でこくりと頷く。
瞬がしたことであれば、それは非常に可愛らしい仕草のはずだった。
しかし、同じ仕草も、その仕草を行なう人間の顔が変われば、全く印象が違ってくる。
氷河は、再び込みあげてきた嘔吐感を、必死になって抑えることになった。






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