「あーあ、これで、一輝と氷河は殺伐関係に逆戻りか。一輝の奴、どっかに姿をくらます前に ひと暴れしにここに戻ってきそうだな」
心底から元に戻ってほしいと願っていたにも関わらず、いざ騒動が落着してしまうと、星矢は気が抜けてしまったらしい。
一輝が元の“男らしい”男に戻ったことを知らされた星矢のその呟きは、どう見ても、新たな騒動を期待してのものだった。
瞬が、そんな星矢に僅かに同情したように、左右に首を振る。

「それが……。兄さん、聖域に行っていた沙織さんに元に戻った姿を見せると、そのまま何も言わずにどこかに行っちゃったんだって……」
「へ?」
男らしさを標榜している割りに執念深い一輝を知っている星矢には、それは実に一輝らしくない言動に思われた。
が、すぐに納得した顔になる。
氷河への報復を断念する。
それこそが、一輝の“男らしさ”なのだ。

「まあ、あれだけ氷河に優しくされちまったんじゃ、一輝も殴りたくても殴れないよな」
「ともかく、すべてが元通りで、どうこう言っても、一輝にはこれが最善の結末だろう」
他の誰でもない瞬のために、氷河は事態の収束を歓迎してみせた。
一輝がもし城戸邸に舞い戻ってきたら、氷河はもちろん彼の挑戦を受けて立つつもりだった。
が、瞬の兄の暑苦しい顔を見る苦行は、できれば年に1度以下にしておきたい――というのが、彼の本音だったのである。

「うん……」
瞬が氷河の言葉に賛同し、頷く。
だが、その声には喜びの色どころか安堵の色さえも混じっていない。
氷河は怪訝に思いつつ、瞬に尋ねた。
「なんだ? “お姉さん”の方がよかったのか」
「そうじゃなくて……。僕、氷河があんまり兄さんに優しいから、ちょっと羨ましくなってたの。僕、兄さんに焼きもち焼いてたみたい」

「うげ」
と、氷河は実際に声に出して、瞬の発言に遺憾の意を示した。
言うに事欠いて、瞬が一輝に焼きもちとは。
氷河は、即座に瞬の馬鹿な考えを否定した。
「おまえの大事な“お姉さん”だと思えばこそだ! あんなに暑苦しいツラは、男でも女でも、俺は5分以上続けて見ていられない。俺は、俺より小さくて可愛くて優しいのがタイプなんだ!」
「うん……」

氷河に小さく頷き返しながら、瞬は、本当のところが何もわかっていない氷河に切ない眼差しを向けることになったのである。
そうではない。
そうではないのだ。
瞬が焼きもちに似た羨望を抱いたのは、氷河と兄の、いわゆる“男同士の友情”というものに対してだった。
氷河に部屋のドアを開けてもらうことを不自然なことと感じてもいなかった自分には、それはもはや手にし得ないもの――のような気がする。
少なくとも、氷河とは。

それが切なくはあったが、つらいわけではない。
今更男同士の友人に戻ろうと氷河に提案したところで、それは不可能なことであるし、瞬は本当に氷河とそんな関係になりたいと願っているわけでもなかった。
そんな自分を知っているから、瞬は氷河の誤解を解くことはせず、氷河に微かな笑みを向けることだけをしたのである。

「でも……氷河は、僕のお姉さんには親切にできるのに、どうして僕の兄さんには親切にできないの? あの……兄さん、今回は氷河にも僕にも何も言わずにどっかに行っちゃったでしょ。あれって、氷河が兄さんに優しくしてあげたからだと思う。氷河がこれからも ちょっとだけ兄さんに親切にしてあげれば、兄さんも色んなことを僕たちの自覚に任せてくれるようになるんじゃないかと思うんだ」
身内に親切にしてくれと求めることに遠慮を覚えるらしく、そう告げる瞬の口調は控えめだった。
氷河が、わざとらしく両の肩をすくめる。

「だが、奴は、おまえ以外の誰かに親切にされるとパニックに陥るんだろう?」
「忘れてた」
うっかり失念していた兄の哀しい習性を思い出し、瞬は、自分の望みが見果てぬ夢だということを 改めて自覚することになったのである。
元の“男らしい”男に戻り、本来の声を取り戻した兄は、もはや氷河の親切を黙って耐えるようなことはしないだろう。

氷河と兄の“男同士の友情”を羨ましく思う一方で、氷河が兄に(その真意はともかくも)親切に接している様を見ていられることは嬉しいことでもあったので、瞬は事態が旧に復してしまったことを、少々残念に思った。
「お姉さんだったら、僕と氷河のことを認めてくれたかもしれないけど、兄さんに戻ったら、兄さんはまた僕たちのことに横槍を入れてくるかもしれないよ」
「その方が、一輝も、最愛の弟を愛していることを周囲にアピールできていいだろう」
「氷河……」

氷河のその言葉に、瞬は一瞬瞳を見開いた。
驚きと同時に、深い安堵を覚える。
瞬の兄がいつまで経っても氷河を目の仇にし続ける(振りをしている)のは、決して彼が氷河を憎み煙たがっているからではない。
氷河に対する一輝の嫌がらせは、兄が弟を愛していることを 弟を甘やかすことでは表現できない一輝の、不器用な“男らしさ”の発露なのだ。
氷河がそれをわかってくれているのなら、瞬はもう、表面上の二人の仲の悪さを改善しようなどという願いを願おうとは思わなかった。

「僕、時々、氷河は、兄さんの気持ちを僕より理解してるんじゃないかって思うことがある」
「それは当然だ。なにしろ、俺と一輝は――」
氷河が一度、言葉を途切らせる。
それから彼は瞬を見詰め、大切な秘密を打ち明けるように声をひそめた。
「同じ人を愛しているからな」

人が、その言葉を何度言われても嬉しいと感じるのはなぜなのだろう。
氷河の嬉しい言葉に、瞬はぽっと頬を染め、はにかむように微笑した。
「僕ってほんとに幸せな人間だよね。こんなに幸せでいていいのかって、恐くなるくらい」
「俺も幸せな男だぞ。なにしろ、おまえに愛されている」
「うん」

久し振りに二人きりで、心に何の憂いもなく交わすキスは、瞬を更に幸福な気持ちにすることになった。
もちろん氷河も、瞬の唇の甘さとやわらかさを その舌で舐め味わいながら、瞬以上に己れの幸福を実感していたのである。
なにしろ彼は、今回の騒動のおかげで、積年の恨みが積もり積もった仇敵の弱みを握ることができたのだ。

キスが終わってしまうのを嫌がって、瞬が氷河の背にしがみついてくる。
そんな瞬をしっかりと抱きしめ返しながら、これからもせいぜい一輝には(瞬に見えないところで)嫌がらせの親切をしてやろうと、氷河は考えていた。
恋する男は、いつの世でも、実に姑息なものである。






Fin.






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