「この国にはヘンタイしかいないのっ!」 この国で、最も暑い季節。 おそらく この国のどんな病院より どんな銀行より快適な居住空間であろうところの城戸邸を瞬が出ていったのは、これから1日の中で最も暑い時間帯に突入しようとしている昼過ぎのことだった。 帰宅は6時。 日中に比べれば気温は下がってきていたが、瞬の脳内と腹の内はいまだに、大絶賛稼働中の溶鉱炉並みに煮えたぎっているようだった。 ラウンジに入ってくるなり、眉を吊り上げた瞬が『ただいま』の代わりに響かせた怒声。 紫龍は、その物言いに苦笑するしかなかったのである。 「おまえは日本縦断旅行にでも出ていたのか。『この国』とはまた大袈裟な」 瞬の立腹の理由は、ここ数日全く同じ。 瞬は、最近 外出先から城戸邸に戻ってくるたび、毎日毎日飽きもせずに同じ理由で激昂していた。 その理由とは、つまり、外出中の瞬を喫茶や食事等に誘うという名目で言い寄ってくる男が多すぎるというもの。 他の理由ならいいというわけでもないだろうが、瞬は、『星矢じゃあるまいし、そんなに僕はおなかをすかしているように見えるのっ』と、微妙にずれたポイントに腹を立てていた。 三人掛けのソファを独り占めする形で横になっていた星矢が、瞬の登場を認めて、その身体を起こす。 同じ屈辱を幾度繰り返しても進歩も変化も見せない仲間に、彼は呆れたような顔を向けた。 「おまえ、いかにも大人しそうで気弱そうな顔してるからな。要するに隙だらけなんだよ」 決して瞬の言うヘンタイたちを弁護するつもりはないのだが、一度や二度ならともかく、連日複数の男に声を掛けられてしまうという事態は、この国にヘンタイが多いというより、瞬自身に問題があると考えるのが妥当である。 怒髪天を突いている瞬に恐れおののくだけの繊細さを持ち合わせていなかった星矢は、自分の考えを正直に口にした。 瞬にぎろりと睨まれて、とりあえず己れの発言に、 「隙があるように見えるんだよ」 と、微妙な修正を加える。 しかし、それはあまり意味のない修正だったらしい。 手負いの虎のように気が立っている瞬は、猛然と星矢に向かって反撃を加えてきた。 「そんなことないよ! 僕、外を歩く時にはいつも わざと怒ってるような顔をして、急ぎ足で歩いてるもの。隙なんか 絶対にない! なのに、あの人たちは、まるで僕がアテナの聖闘士で一般人に手荒なことができないことを知ってて からかってるみたいに、馴れ馴れしく僕に声を掛けてきて、肩に手を置いて、不愉快なことばっかり言い連ねるんだ!」 『不愉快なこと』とは、おそらく、瞬でない人間――主に女性――が言われた場合には むしろ褒め言葉になる類のことなのだろう。 その具体例を挙げることが不愉快でならないらしく、瞬は口許をきつく引き結んだ。 いずれにしても、この国のヘンタイさんたちが瞬の職業を知っているわけはない。 瞬は、自分の怒りに自分で燃料を投下して更に大きくするという、実に無益な行為を行なっている――と、星矢は思った。 が、瞬の主張に一理がないわけではない。 瞬の動作は確かに機敏で、誰かに声を掛けてもらうことを目的として街をふらついている暇な少女には見えないはずなのだ。 それは確かに奇妙な事象ではあった。 「一人で出掛けるからだろ。前みたいに氷河をお供にして出掛ければ、その辺の男共は氷河に恐れを為して、誰もおまえにちょっかい出そうなんて考えないに決まってるのにさ。氷河はどうせ毎日ぼーっとしてるだけなんだし、この暇な男をもっと有効活用しろよ」 以前は――この国に夏がやってくる前には――瞬は、敵の襲撃がないせいで暇を持て余している氷河を、外出のたびに同伴していた。 『氷河、暇なら一緒にどっか行こうよ』が、瞬の日課にも似た口癖だったのだ。 そのうちに、瞬からお声が掛からなくても、氷河は自発的に瞬のお供を買って出るようになり、瞬は瞬で、自分が出掛ける時、その横に いつのまにか氷河の姿があることを不思議に思わなくなっていた――ように、星矢の目には見えていた。 それが、なぜか最近、瞬は氷河の同伴を断るようになってしまったのである。 あるいは、氷河の目を盗むようにして外出することが多くなっていた。 「やだ。氷河といると、僕、氷河の彼女扱いされるんだもの。みんな、そういう目で僕を見るんだもの」 「そこが狙いだろ。そーすりゃ、この国のヘンタイ共も おまえに声を掛けてこない」 「氷河に迷惑でしょ」 「俺は別に――」 それでなくても激昂している瞬を更に刺激することのないように 慎重に沈黙を守っていた氷河が、初めて口を開く。 火に油を注ぐ愚行は犯したくなかったが、大事なところでは確実に自分の意思を示しておかなければならない。 なにしろ、氷河にはそれは、迷惑どころか、願ったり叶ったりの状況だったのだ。 瞬と一緒にいる時には、この国のヒートアイランド現象を主原因とする馬鹿げた暑さも気にならない。 氷河とて、本当に暇を持て余しているわけではなく、その気になれば用事はいくらでも見付かったし、作ることもできたのだが、そんな用事に従事することより瞬の側にいることの方が、氷河は はるかに時間を楽しむことができた。 毎日瞬と出掛けていられた頃は、自分の人生に春が来たとさえ、氷河は思っていたのである。 それが夏の訪れと共に、瞬は、 「氷河がよくても、僕はいやなのっ」 と言って、一人きりで外出するようになってしまった。 瞬にそっぽを向かれ、氷河は短い溜め息を洩らした。 |