その瞬が電車を降りたのは、都心の繁華街として名の知れた街と同じ名を冠した、某東日本旅客鉄道株式会社の駅だった。
夏休みでなくても昼間でなくても就学中の児童生徒学生がごろごろとたむろしているので有名な街である。
児童生徒学生が夏休みに入っている時期の、しかも日中、駅の構内を出たアテナの聖闘士たちの目の前には、海水浴場の芋洗い状態とさして変わらない光景が広がることになった。
そんな中で、瞬はまるで、人が大勢いる場所に紛れ込んで、自らの孤独を確かめようとしている自虐的な人間に見えた。

『あれさ、アヤしいお兄さんに声を掛けてくれって言ってるようなもんじゃね?』
という星矢の懸念は、瞬がその街のメインストリートに足を踏み入れた途端、現実のものとなった。
大学生か浪人生といった風情をした、この国のヘンタイさんの一人が、早速瞬に声を掛けてきたのである。

「どこ見て、そんなこと言ってるんですか! 僕は男です」
身の危険を感じるセンサーは健在なのか、それまでひたすらぼんやりしているようだった瞬が、ヘンタイさんに きっぱりと拒絶の態度を示す。
もちろん、この国のヘンタイさんは、そんなことで引き下がったりはしなかったが。
「君のどこが男だって? 冗談はやめてくれよ。一人なんだろ。俺、奢るからさー」
「冗談じゃなく、正真正銘の男なのっ」

(あーあ……)
人出が多く、瞬の注意力も散漫とあって、星矢たちは既に瞬の尾行を続けるために身を隠す必要性を感じていなかった。
人混みの中から、瞬に絡んでいる男を見やりながら、星矢は声には出さずに内心で嘆息した。

失礼ながら、彼は、臆せずに瞬に声を掛けることのできるような ご面体の男ではない。
見た目が他人に劣るというのではなく、生きている人間としての気概が感じられないのだ。
その姿勢・所作も、星矢の目には軟体動物のそれのように だらしなく見えた。
そんな男に気安く声を掛けられる瞬というのが、星矢には信じられなかったのである。

瞬が人好きのする面差しをしていて、一見した印象が温和なのは事実だが、仲間とくつろいでいる時以外の瞬は、意思的な眼差しと毅然とした態度を維持している少年だった。
瞬が普通にしていたら、普通の男は気後れする。
そういうものだと、星矢は思っていたのだ。
それを感じ取ることができないほど愚鈍な男か、よほど自分に自信を持った大物でなければ、瞬と対峙することには尋常でない緊張を余儀なくされるだろう――と。

もちろん、たった今 瞬にちょっかいを出しているヘンタイさんが愚鈍に過ぎる男だという可能性を否定することはできないが、それにしても今日の瞬は――もしかしたらここ数日間の瞬も同様だったのかもしれないが――アテナの聖闘士にあるまじき 隙の多さを露呈していた。

「君くらい可愛い子だったら、男でもいいなー」
もしかしたら今日のヘンタイさんは、本物の変態の要素を持っていたのかもしれない。
その軟体動物のような のらりくらりとした態度のせいで、星矢には彼が本気なのかふざけているだけなのかの判断がつきかねたのだが、彼はにやつきながら瞬に向かって そんなことを言い出した。
言われた瞬が、不快そうに眉根を寄せる。

「それこそ冗談はやめてくださいっ。僕には、そんな趣味はありませんっ」
「怒った顔も可愛いけど、そんなに怒んないでくれよ。可愛い顔が台無しだ」
彼の言っていることは矛盾だらけだったが、それは暑さのせいではなく、彼はもともと論理的思考力と言語能力に不自由している男だったのだろう。
当の本人は、自分が気の利いたセリフを言ったと認識している節があった。

「近寄るなっ! 僕は、そうい・・・うの・・が だいっ嫌いなんだっ!」
瞬がいらついたように周囲に大声を響かせ、星矢はその声の大きさというより内容にひやりとした。
通りを歩いている者たちの視線が、瞬と瞬に絡んでいる男に集中し、ヘンタイさんは、瞬の怒声にではなく自分に注がれる不特定多数の他人の視線に気後れを覚えたようだった。
しかし、それでも彼は瞬から離れようとしない。

それほどに――怒声を張り上げても、今の瞬には迫力がないのだ。
瞬は今にも泣きそうな目をして、ヘンタイさんを睨んでいた。
ヘンタイさんが、もう少し押せば落とせると踏んだのも、ゆえないことではなかったろう。
「そう言わずに」
ヘンタイさんが食い下がる。

「あ……あのにーちゃん、このクソ暑いのに根性あるじゃん」
どもりながら星矢がそんなことを呟いたのは、瞬の怒声の内容を氷河がどう理解したのかを、今ここで確かめる勇気がなかったからだった。
そして、その呟きを呟き終えてから、星矢は、自分が全く暑さを感じていないことに気付いたのである。
もちろん、それは、彼の横で氷雪の聖闘士が怒りに燃えていたからだった。
否、彼の周囲の空気を冷ややかにしていたものは、もしかしたら怒りではなかったかもしれない。

「あ、おい、氷河」
星矢は一応止めようとしたのである。
なにしろ相手は、人智を超越した論理性の持ち主とはいえ一般人なのだ。
が、星矢はすぐに氷河を止めることの無理を悟った。

「俺の連れが何か」
人類の言語を解するかどうかも怪しい軟体動物に話しかけることが、氷河は心底から不愉快だったのだろう。
現在の量子力学では、不確定性原理のために原子の振動が完全に止まることはなく、絶対零度の状況下でも原子は零点振動を行なっていると考えられているが、星矢は、原子の振動が完全に止まることはありえると、その時に思った。
氷河の声は、まさにすべての原子が振動を止めることによってできた氷そのものだった。

「なにっ」
氷河とは逆に、脳が沸騰しているような声をあげて、ヘンタイさんが後ろを振り返る。
ヘンタイさんが息を呑んだ様子が、星矢にははっきりと見てとれた。
ヘンタイさんが振り返った その場にいたのは、金髪碧眼の男。
しかも、その目つきの冷たさはただごとではない。
暴力団対策法の規制対象となる自由業従事者の人間でも、ここまで高圧的ではないだろうし、人類を虫けらと言い放つ傲慢な神でも、ここまで人を見下すことはできないだろう。
星矢は正直なところ、この時ばかりは、超論理の持ち主であるヘンタイさんに同情したのである。
絶対零度の権化のような今の氷河に睨まれて、尻餅もつかずに自分の足で立っていられるだけでも、このヘンタイさんはなかなかの人物ではないか――と。

「お……男がいるならいるって、最初に言っとけ!」
吐き出すように言う男を、氷河が下目使いにじろりと睨む。
途端にヘンタイさんは、その生命力の強靭さを人類と争うことのできる唯一の昆虫(=御器噛)並みの素早さで、あっという間に人混みの中に姿を消してしまったのだった。


「氷河……」
仲間にまずいところを見られてしまったという自覚はあるらしい。
瞬は、一度 氷河の顔を窺い見ると、そのまま顔を伏せてしまった。
「帰るぞ」
完全に命令形で氷河にそう言われた瞬は、多分に気後れしながらではあったが抵抗の意を示そうとした。
が、氷河が一瞥をくれた先に、もう二人の仲間がいるのに気付くと、瞬は結局、無言で氷河に頷くことになったのだった。






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