「おい、ヒョウガ」
スキュティアの騎士の一人で、ヒョウガの幼馴染みでもあるセイヤに顎で示されて、ヒョウガはその事故に気付いた。
彼等が立つ丘の麓の川の真ん中で、2頭立ての馬車が立ち往生をしている。
10年の長きに渡る不仲のために、二つの領地をつなぐ橋はない。
くだんの馬車は、流れの穏やかな浅い川と見くびって、この地境の川を渡ろうとし、深みにはまってしまったようだった。

「リビュアの館に向かう馬車のようだな」
ヒョウガが、馬の手綱を引く。
「助けるのか」
一緒にいたシリュウとセイヤに問われ、ヒョウガは軽く肩をすくめた。
「仕方あるまい。馬車に乗っているのなら、難儀しているのは騎士ではないだろうし」
言い終わる前に、ヒョウガの馬は なだらかな丘を下りだし、セイヤとシリュウの乗った馬も そのあとを追うことになった。

馬車につながれた馬たちに必死になって鞭をくれていた御者は、ヒョウガたちの登場にぎょっとしたようだった。
ヒョウガたちが現われた方向を考えれば、彼等がスキュティアの者だということは火を見るより明らか。
そして、リビュアとスキュティアの者たちが対立し合っていることを知らぬ者は、この界隈では生まれたばかりの赤ん坊くらいのものだったのだ。

恩を売る気のなかったヒョウガたちは、前置きもなく 川の窪みにはまった馬車の車軸に縄を掛け、彼等の馬たちにそれを引かせて、首尾よく馬車を向こう岸に引き上げた。
まさか敵の領地の騎士たちに助けられるとは思ってもいなかったらしい御者が、礼も言わずにぽかんと口を開け、スキュティアの騎士たちを見詰めている。

そうしてヒョウガは、図らずも、敵領に足を踏み入れることになったのである。
母の生まれ育った土地――ここ数年間は、遠くから眺めていることしかできなかったリビュアの地に。
だが、彼には、感慨にふけっている暇は与えられなかった。

「ありがとうございます。橋がないのは、なくても容易に渡れる川なのだからと短慮して、御者に進むように言ってしまいました。川の流れは、人の心より読みにくいですね」
不思議な言葉を告げながら馬車から降り立ち、ヒョウガの前に現われたのは一人の少女だった。

歳の頃は、15、6。
ドレスを身に着けてはおらず、麦がどんなふうにして育つのかも知らないのだろう宮廷貴族の男子の格好で男装をしている。
いかにも金のかかった馬車で旅をするのなら当然の用心だったろうが、それは無駄な用心だともヒョウガは思ったのである。
いくら男装していても、彼女を少年と見紛う者はいまい。
万一 少年と信じる者がいても、この美貌では、少女より高い値段で売れるとばかりに、強奪者たちを喜ばせるだけのことになりそうだった。

ともかく、彼女は綺麗だった。
飾り立てた宮廷の貴婦人の美しさではない。
それは、神が彼女を造った時に、与えられる限りの清らかさを その身に吹き込んだのだと思えるような、自然で清楚な美しさだった。

ヒョウガは言葉を失い、その場に立ち尽くすことになったのである。
この世には、額に汗して働く農民の女と、自分では何も生み出さず 怠惰な身体をけばけばしい衣装で飾りたてようとする女しかいないものと、ヒョウガは思い込んでいた。
その2種類の女たちのどちらにも分類されない女性は、ヒョウガの知る限り、彼の母だけだったのだ。
つい先程までは。

ぽかんとしているヒョウガに代わって、シリュウが彼女に尋ねる。
「お怪我はありませんか」
「はい。おかげさまで」
「リビュアの館に向かっているとお見受けしますが」
リビュアの名を出され、ヒョウガがはっと我にかえる。
そして、ヒョウガは、突然、不吉な考えに囚われ、絶望的な気分になった。

なぜ そんな考えが突然生まれてきたのかは、ヒョウガ自身にもわからなかったのだが、彼はその時、 脈絡もなく、リビュアの現領主が独身男だということを思い出したのである。
彼女は、リビュアの領主が妻に迎えるために都から呼び寄せた女性なのではないかと、ヒョウガは考えた。
その考えが、すぐに当人によって否定される。
「リビュアの領主は兄です」
一瞬 息を呑み、そして安堵する。
最悪の事態は免れたと感じている自分自身を怪しむことだけはできたのだが、ヒョウガはなぜ自分がそんな気分になっているのかまでは わからなかった。

「お礼をしたいので、ぜひ兄の館までおいでください」
ヒョウガを奇妙な気分にさせる少女が、涼しげな目をして、ヒョウガたちをリビュアの城に招待する。
「遠慮しておこう。我々が、リビュアの領主殿に快く迎えられるとは思えない」
彼女に対して初めてまともに口にした言葉がそれであることに、ヒョウガは不快と口惜しさを覚えた。

「え?」
彼女は、二つの領国の因縁を知らないようだった
説明するのも忌々しい。
ヒョウガは馬に飛び乗り、愛馬の首をスキュティアに向けた。
「礼は不要だ」

「おい、ヒョウガ! せっかく こう言ってくれてるんだから……。いい機会かもしれないぞ!」
セイヤが何やら わめいていたが、ヒョウガは後ろを振り返ることはしなかった――できなかった。
心臓を異様に強く速く波立たせながら、ヒョウガはリビュアとスキュティアの境界になっている丘を駆け上った。






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