そうして白鳥座の聖闘士がアテナと共に聖域に向かった5日後。
アテナは、氷河を伴わずに、ひとりだけで日本に帰国した。

氷河に同行を拒否され、それが氷河なりの思い遣りなのだとわかってはいても、日本で不安な日々を送っていた瞬は、沙織の一人だけの帰国に 更に不安を募らせることになったのである。
氷河のためにわざわざ聖域に向かったアテナが、聖域を離れて青銅聖闘士たちの許に帰ってきたということは、何らかの進展(あるいは後退)があったと見ていいだろう。
だが、いったい氷河の身に何があったのか。
知るのが恐くて――瞬は彼女に尋ねることができなかった。

そんな瞬の心を和らげようとしたのだろう。
城戸邸に到着した沙織は、彼女を出迎えた氷河の仲間たちに『ただいま』も言わずに、まず、
「あなたたちに話しておきたいことがあって、私だけ一足先に帰ってきたの。氷河は明日の飛行機で帰国します。何も心配することはないわ」
と告げた。

そう告げる沙織の表情は、だが、決して明るいものではなく、ゆえに、彼女の言葉は瞬の不安をすべて消し去ることはできなかった。
それでも、彼女のその言葉によって、瞬は、その後移動したラウンジでアテナからもたらされるだろう報告を、できるだけ落ち着いて聞こうという心構えだけは持つことができたのである。

“心配することはない”状況であるにも関わらず、沙織の表情が明るいものでなかった理由は、まもなくアテナの聖闘士たちの知るところになった。
「氷河にとりついている神が何者かわかったんですか」
「わかったというか、何というか……」

自ら口火を切る勇気までは持てずにいるらしい瞬に代わって尋ねた紫龍に、沙織が即答をためらう。
少々の間をおいてから、沙織は、
「氷河はつまり……神に憑依されているのではなく、病気だったの」
という衝撃の事実を、彼女の聖闘士たちに告げた。
「病気ー !? 」
星矢の素頓狂な雄叫びに、沙織が微かに頷き返す。

「ええ。クリプトムネジアという心の病気――脳の病気と言うべきかしら。氷河の場合は少し普通と違う症状が出ているようだけど」
「そ……そのクリップなんとかって何なんだよ?」
星矢はもちろん瞬も、それは初めて聞く病名だった。
無駄な薀蓄の所有量の多い紫龍だけは、その病気に関する幾許かの知識を持ち合わせていたらしいが、その紫龍も、どこか合点のいかない顔をしている。
沙織は、その病気の説明にとりかかった。

「クリップなんとかじゃなくて、クリプトムネジア。もともとは心理学用語で、本人の意識から忘れ去られたところで、過去に他人や本などから得た知識が 別の形となって現われる現象のことよ」
「? 意味わかんねー。もう少し わかりやすく言ってくれよ」
「つまり、本で読んだり、人から聞いたりした話を、自分の経験だと思い込むことよ。氷河の場合は、瞬の経験したことを自分の経験だと信じ込んでしまったの」
「瞬の経験――とは」
「ハーデスに身体を乗っ取られかけたことね、つまり」
「ああ」

紫龍が、やっと得心のいった顔になる。
だが、肝心の瞬は、現状と現象は理解できても――理解できたからこそ―― 一層混乱が増すことになったのである。
なぜ氷河がそんな思い込みに囚われることになったのかが、まず瞬にはわからなかったのだ。
おそらくは瞬のために意識して感情を排斥した口調で、沙織が、氷河の罹病の原因を氷河の仲間たちに向かって告げる。

「瞬がハーデスの野望を砕くために、自分の命を絶とうとしたことが、氷河には相当ショックだったんでしょう。その時氷河はその場にいて瞬を守ってやることもできなかった。いつまたそんなことが起きて、瞬を失うことになるかわからない。瞬を失わないためにはどうしたらいいのかを心配しすぎて、考えすぎて――瞬が負うべき宿命を自分が肩代わりすれば、瞬は無事でいられるのだと、氷河は思い込んでしまったのね」

「氷河……」
今はこの場にいない人の名を呼んで、そのまま瞬が絶句する。
彼らしくなく、そしてアテナの聖闘士らしくなく、従容として死の途に就こうとしていた氷河。
まるで明日には二人は触れ合えなくなるのだと言わんばかりに、肉体の接合を求め続けていた氷河。
問い詰めようとすると、詰問者を押し倒すことで答えをはぐらかそうとする氷河。
彼は、聖域に同行したいという瞬の望みをさえ、頑としてはねつけた。
彼が自分に何も言ってくれず 拒みさえすることに、瞬は寂しさだけでなく じれったさや苛立ちをも覚えていた。
そんな氷河を、瞬は『冷たい』とまで思っていたのである。

それらのことがすべて、彼を冷たいと思っている人間のためだったとは。
瞬は、言葉どころか声すらも失いかけていた。
こんなことがあっていいのだろうかと思う。
彼にそこまで思われている相手は、彼の心に全く気付かず、それどころか逆恨みさえしかけていたというのに。






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